視野は狭く、深く。根気と技術でとことん突き詰めたい。 後藤裕之 クリエイターインタビュー 〜THE EARLY DAYS〜

『もじぴったん』のルーツを生んだ幼稚園〜小学校時代

もじくん 本籍地は東京・八重洲。新宿で生まれ、世田谷区で育った後藤裕之さんは、根っからの東京っ子だ。大都会で生まれ育ったと聞けば、こちらもついインドアな少年時代を想像してしまうが、周囲の環境ばかりでなく、とにかく非常に内向的な性格だったと、後藤さんは自らの少年時代を回想する。

「幼稚園時代は、ほとんど外で遊んだ記憶がなく、物心つく前から、積み木遊びが大好きな子供でした。レゴのように固定されるブロックじゃダメで(笑)、ちょっと触るとガチャッと倒れちゃうような積み木をコツコツ積み上げる。これは『もじぴったん』とも繋がってる話なんですが、“あいうえお”が書いてある積み木でお城をつくったり、麻雀牌の同じ模様を積み上げたり……とにかく、四角いものを組み立てるのが大好きでした」

photo 幼稚園でも部屋の隅っこでコツコツと積み木を積み上げていた後藤さん。小学校に上がると、その興味は積み木から本へと変わったが、コツコツとひとり遊びを続ける趣味は変わらなかったという。

「小学校からは、絵本や図鑑を読むのが好きになりました。特に図鑑ですね。別に、勉強しろと強制されたわけではなく、全く自分自身の興味で、親が買ってくれた図鑑セットを隅から隅まで、1ページ1ページ全部読んでたんです。ジャンルは関係なく、とにかく図鑑なら何でも。ただ、昆虫図鑑を読んでも、実際に外に出て昆虫を捕まえてみようとは全く思わなかった。本の中の世界を知ることで満足でした」

 図鑑を読みふける生活と共に、後藤さんの子供時代の思い出には、音楽にまつわるエピソードもある。

「母親がバイオリンをやっているので、幼稚園の年長から音楽を習ってました。最初はバイオリンでしたが、才能がないことがわかったらしく(笑)、近所のピアノ教室に通わされて。今でこそ、男の子がピアノを習うのは珍しくはないですが、当時は小学校のクラスでもピアノをやっているのは僕だけ。友達からは女の子みたいとバカにもされていたので、小学3年生で辞めてしまいました。今思えば、もっとやっておけばよかったと思いますね。教則本の進みも早かったし、絶対音感も身についていましたから」

PS2『もじぴったん』スクリーンショット1  読書と音楽。小学生時代の思い出はそれだけではない。後藤さんが小学校高学年にさしかかろうとした時、クラスには……いや、全国規模である空前のブームが訪れていた。ファミコンだ。

「ファミコンブームが起こったのは、僕が小学4〜6年生くらいの頃でした。クラスの全員がファミコンを買ってもらっていたんですが、僕の家だけは別で。理由は、ウチにパソコンがあったから。パソコンでゲームをやればいいと父に言われて(苦笑)。富士通のFM-7の時代でした。でも、僕は文字を打ち込む地味なアドベンチャーゲームではなく、『マリオ』がやりたかったんですよ。そんなとき、近所のオモチャ屋で『マリオ』のデモ機を見つけたんです。そこで僕は、毎日、オモチャ屋の店頭で『マリオ』を遊ぶようになりました」

 だがオモチャ店にしてみれば、店頭のデモ機をひとりの子供に占有させておくわけにもいかない。『マリオ』をめぐって、後藤さんと店員との戦いが始まった。もちろんそのバトルは、図鑑セットを読破するほどの持久力を蓄えていた、後藤さんの勝利で終わる。

「僕が試遊台から離れないので、1度ゲームオーバーになると追い払われるようになりました。こっちも、1ミスで、翌日まで『マリオ』を遊ぶことができないんですから必死ですよ。攻略本もロクにない時代でしたから、とにかくルートを覚えて、授業中にずっとイメージトレーニングをしながら自力で攻略を進めていきました。そのうち、クラスでいちばん『マリオ』が上手になり、ノーミスでクリアできるようになった。オモチャ屋の店先でギャラリーができるほどになったんです。みんなが僕のプレイを感心しながら見ている。それが快感で、すっかりゲームにハマりました」

本格的なゲーム人生と厳しい部活で過ごした中学〜高校時代

 テレビゲームの魔力にすっかりハマった後藤さんは、中学に入りついにファミコンを手に入れる。そして、『マリオ』で浴びた賞賛に気をよくした彼は、「ゲームをいち早くクリアする」快感にますますハマっていく。

「アクションだけでなく、ゲームを人より早く自力で解く優越感に浸るのが嬉しかったんですね。中1の時に発売された初代の『ドラクエ』は3日でクリアしました。ゲーム好きの間では、誰がどこまで進んだかが口コミですぐわかるんですが、その後の『ドラクエ』も早解き記録は全校で1位。どのゲームも、ただ早く解くだけじゃなく、レベルも99まで上げ、宝箱も全部取るような100%クリアをいかに早く達成するかが目標でした。おかげで、友達からは“早解きの後藤”というあだ名をもらいました(笑)」

 『ドルアーガの塔』『バベルの塔』『ロードランナー』……ゲームの腕前もぐいぐい上達し、ひとりでコツコツプレイした成果を“魅せるプレイ”で友達に披露。内向的だった後藤少年は、持ち前の探究心でゲームに打ち込むことで、友達のヒーローとなる。

photo「もうひとつ、周囲からちやほやされたネタとして、音楽がありました。中学2〜3年の頃、音楽の授業で、光GENJIか何か……当時ヒットしてた曲をピアノで弾いたら、女の子が喜びましてね(笑)。それから、毎週のベスト10番組に登場する曲を覚えてピアノで弾くようになったんです。音楽ができれば、女の子にモテるんだと思って(笑)」

 小学校時代はピアノ教室にイヤイヤ通っていた後藤さんだったのだが、音楽の授業はもちろんのこと、中学ではなぜか音楽で脚光を浴びる機会も多かった。

「そもそも、中学では吹奏楽部に入っていました。入部のキッカケは、吹奏楽部にいた先輩に『チューバは大きくてカッコいいからやってみないか?』と、半分騙されたようなものなんですけどね(笑)。でも実際に弾いてみると、ボンボンいってるだけで地味。心の中ではトランペットに移りたいなぁと思いつつも、結局3年間チューバを吹き続けました。やっぱり音楽をやることが楽しかったんですね。そして受験が迫ってきたとき、吹奏学部の先生の勧めもあって、音大の付属校への進学も考えたんですが……さすがに親はふつうの高校に行って欲しいと言うので、音大付属は諦めました」

 そして後藤さんは、エスカレーター式に大学に上がれるという理由で、慶應大学の付属校を受験。「中学校の成績はとても平均的。ほぼオール3だったし、暗記をしなければいけない科目は好きじゃなかった」という後藤さんだったが、受験問題にも恵まれ難関を突破する。

「高校では応援指導部という部活を3年間やりました。いわゆる応援団ですね。別に入りたいわけではなかったんですが、部活の見学をしているときに応援指導部の先輩に捕まり、ここに入部すれば、付属女子校のチアガールと仲良くなれると騙されて、そのままズルズルと……(苦笑)。なにせ応援団ですから、服装は夏でも学ラン。何十メートル先でも先輩を見かけたら大声で挨拶をしなければならない厳しさですし、月曜日から金曜日まで、毎日3時間は体力づくりやら発声やら応援歌の練習やらで放課後のスケジュールもビッシリでした。ここでずいぶん、持久力と体力が身についたと思いますよ。結局、チアガールとは、ちゃんと話をする機会すらなかったんですけどね(笑)」

PS2『もじぴったん』スクリーンショット2 文系の吹奏学部から一転、高校ではバリバリの体育会系になった後藤さん。大学の早慶戦の手伝いなど応援指導部の行事はいろいろあったが、中でもいちばん辛かったのは、お笑いのネタづくりだったという。でもなぜ、お笑い?

「僕らは“演芸”と呼んでいたんですが、応援指導部の大きな活動のひとつに、学園祭などの盛り上げ役があるんですね。要は、生徒の前でショートコントを披露するんです。そのネタも、毎日先輩に見てもらわなくちゃならない。まず、先輩が練習で笑ってくれないと、大変なことになるんですよ。いかに体を張った面白いコントのネタをつくるか、授業中もずっとそればかり考えていました」

 もちろん、部活と共に後藤さんはゲームへの情熱も忘れていなかった。高校時代はほぼすべての家庭用ハードを所有し、部活の合間には好きなゲームをプレイ。しかも、部活が一段落する高校3年時には、子供時代から慣れ親しんだパソコンにもさらに興味を深めていった。

「小学校でファミコンにハマってから、ゲームをつくりたいと思い、中学時代からちょこちょことプログラミングは始めていたんです。そして高3になり、8割方本気で将来はプログラマーになろうと思って、独学でゲームづくりを始めました。もともと、何かを始めると夢中になる性格でしたから、学校にも行かなくなって……一時は“後藤死亡説”が流れるほどに(苦笑)。もちろん、成績もどんどん下がりまして、このままではエスカレーター式といえども大学に進級できないところまで行ってしまったので、最後の3学期で頑張ってなんとか大学に滑り込みました。面白い話ですが、高校を卒業してしばらくは、僕の成績表のコピーが、在学生の間で進級のお守りとして語り継がれてましたね。こんなにひどい成績でも大学に上がれたヤツがいた、ってことなんですけど(笑)」

クイズ研究会とギネスブック挑戦に明け暮れた大学時代

 後藤さんが進学した学部は環境情報学部。そのキャンパスは慶應大学の一般の学部がある横浜市・日吉からは離れた藤沢市にあった。しかし後藤さんは、藤沢キャンパスにはほとんど行かず、またしても学業以外に人生を打ち込む“あるもの”を見つけてしまう。

PS2『もじぴったん』スクリーンショット43「全国的にも有名だった“クイズ研究会”に入りました。子供時代の夢のひとつが、アメリカ横断ウルトラクイズに優勝することでしたから(笑)。当時は、テレビもクイズブームでしたし、もともとパズルやクイズが大好きでした。高校時代もゲームセンターのクイズゲームに毎日お金をつぎ込んで100%クリアしたり、高校生クイズの番組に出場したりしてましたから、大学ではクイズに全力を注ごうと思ったんですね」

 大学の部室でミニクイズ大会を開いたり、先輩のアパートに泊まりこみで自分たちのつくった問題を解きあったり、テレビのクイズ番組にチャレンジしたり。残念ながら、後藤さん自身はテレビ番組への出場はなかったが、大学クイズ研究会としてかなりの知名度を誇っていた慶應クイズ研究会は、番組のエキストラなども依頼されていた。そして、大学3年のとき。後藤さんはNHKのあるクイズ番組収録で、ある出来事に会ってしまった。

「NHKのスタッフの人が、大学生がエキストラとして集まっているのをいいことに、ドキュメンタリーの新番組に関するアンケートを採ったんですね。そのドキュメンタリーの内容が、若者が何かにチャレンジする姿を追う企画だったんです。そこで、あなたの夢を書いてくれといわれて、僕は冗談半分で『円周率暗唱のギネス記録に挑戦したい』と書いたんですよ。そうしたら、番組スタッフが面白がってしまったらしく……。冗談で書いたことですから、最初は断るつもりでスタッフと面談したんですが、相手が女性で、しかもちょっと好みのタイプだったもので、つい乗せられて引き受けてしまったんです(笑)」

photo 番組づくりの都合もあって、準備期間は半年と決められた。当時の記録、40,000桁をクリアするために、後藤さんは大学の授業もそっちのけで、ひたすら円周率を暗記した。そして、半年後……。

「17,670桁目で詰まってしまい、見事に失敗し、その様子も放送されました。ただ、僕がその会場を去ろうとしたとき、それまで僕によくしてくれていたカメラマンの方が、『もう1回やろうな』と温かい声をかけてくれたんです。それにジーンとしてしまい、あとからまた電話を掛けて、半年後に再チャレンジをさせてほしいと申し出ました」

 そこから、また半年間の苦闘が始まった。今度こそ、という思いと、二度は失敗できないというプレッシャーの中、1995年2月18日。9時間21分30秒、食事もとらず極度の緊張と共にカメラの前で円周率の暗唱を続けた後藤さんは、ついに42,195桁の世界記録樹立に成功した。ちなみに、この記録は、2004年まで破られることはなかった。

「1995年は、ちょうど1月に阪神淡路大震災があったんですが、再挑戦の日までずっと家に閉じこもって、外部の情報を全く目に入れずにいたので、そんな大災害が起こっていたこともまったく知りませんでした。何の娯楽もなく、ひたすら数字を覚えることに集中していましたね。結局、1年間ほとんど大学に通えなくて留年してしまったんですけど、ギネスブックのおかげで、大学の学部長賞をもらってしまいました。ふつうは学業の成果が認められる賞なんですが、番外編として特別に(笑)。ほかにも、取材をたくさん受けたり、伊勢丹デパートのスーツの新聞広告に出演できたりと、面白いことがありましたね」

PSP『もじぴったん』スクリーンショット ギネスへの挑戦で、クイズのほうも1年間ご無沙汰していた後藤さん。大仕事を終えた彼の興味は、クイズを解くほうからつくるほうへとシフトしていた。

「ギネスへの挑戦が終わり、大学3〜4年生の頃から今度はクイズ番組や視聴者参加番組をつくる放送作家になりたくて、クイズ研究会で繋がりもあった番組制作会社に電話をかけてアルバイトに雇ってもらいました。最初は雑用でしたが、徐々にクイズの問題や番組のルールをつくるような重要な仕事をやらせてもらえるようになりましたね。性格的なものでしょうか、重箱の隅をつつくような問題をつくるのが得意だったので、いろいろとクイズ番組に問題が採用されました」

 実は後藤さんには、大学卒業後、その制作会社の正社員への道も開けていたという。だが、仕事を続けるうちに後藤さんの心は、放送作家とは別の道へと少しずつ傾いていった。

「僕はもともと、クイズ番組や『風雲たけし城』的な視聴者参加型番組の放送作家がやりたくてアルバイトで見習いを始めたんですが、徐々にそういった番組も下火になり、視聴率を取っている番組が必ずしも面白い番組ではないことにも気づき……。やっぱり、テレビは番組を楽しんでいる人の反応を生で知ることはできない。だったら、もっと人を楽しませることに特化したものにかかわりたいと思って、大学卒業の半年前に、ゲーム制作のほうに進むことを決意しました」

強い信念・持久力・集中力〜クリエイター・後藤裕之の身上

 それまでの人生を振り返ると、「何かを決めるときには突然思いつく」「ほかを省みず自分の好きなことを優先する」タイプと後藤さんは自分を分析する。ゲーム会社への就職も、思いついて即決した。受験したのはナムコのほか、ほんの数社。2社から内定をもらったが、以前からよく遊んでいたゲームが多く、反応の早かったナムコにすぐ入社を決断したという。

「ギネスのエピソードがなかったら、採用されてたどうかも怪しいですね(笑)。ただ、ゲームは元から大好きだったし、高校の応援団時代に笑えるネタをひねり出すコツを身につけ、好きなものに対する持久力と集中力には自信があったので、ゲームづくりは向いているとは思ってました。それに、ギネスの記録をつくったときもそうだったんですが、僕は意外に運もある」

photo その運のよさは、ナムコ入社後も発揮されている。入社後すぐに関わったプロジェクトは日の目を見ずに解散したが、その後の企画コンペに提出した第1弾作品が、すぐに採用された。それが、あの『もじぴったん』だったのだ。

「『もじぴったん』のもともとのアイデアは、小学生〜中学生でプログラミングを始めたときから10年間あたためていたものでした。誰にでも楽しんでもらえる内容で、何より自分が遊びたいゲーム。僕の行動は、ほとんどが自分のやりたいことからスタートしています。よく、ゲームクリエイターを目指すなら『視野を広く持て』と言われますが、僕の場合はそれとは逆で、視野を狭く、深く生きてきました。でも、僕のつくりたいゲームはそういうものなんです。とことん突き詰めた内容。ただし、それを形にするためには、誰にも負けない信念が必要です。『もじぴったん』も最初は、誰にもまったく相手にされないか、中ヒットになるか、どちらかだと思ってました。アイデアがシンプルなので、すぐにつくれそうに見えますが(苦笑)、言葉の辞書をつくるのに、実は相当な根気と技術がいる。それをできるのは、自分しかいないと思いました」

 映像の美しさ、ストーリーのボリューム感。残念ながら、現代の新世代型ゲームでもてはやされるそれらの要素を『もじぴったん』に見出すことは難しい。だが、幼い頃から強い信念で趣味をまっとうしてきたひとりの人間が、シンプルなルールでとことん内容を突き詰めた『もじぴったん』は、老若男女に幅広く受け入れられた。

「ハードのスペックを知らしめるような大作は、まったくつくりたくないわけではないですが、僕にはあまり向いてない。それよりも、昭和時代のテイストを守ったシンプルなゲームをつくり続けようと、自分に使命を課しています。世代的にも、レトロゲームに対する需要が増えてきている。僕が小学生だった当時にやっていたゲームは、やはりテレビゲームとしての面白さの原点なんじゃないかと思います。僕は、これからもそれを守り続けていきたいんです」

PS2『もじぴったん』スクリーンショット4 自身のゲームづくりの原点でもある『もじぴったん』シリーズは、「けっして作品を乱発せずに、これからもつくり続けていきたい」という後藤さん。現在は新作に向けて準備を整えているところ。ところで、その時々で深い趣味を持ち、それを将来の仕事にいかしてきた後藤さんが、今現在ハマっている趣味は何なのだろうか?

「といってもまたクイズなんですが……2000年以降は、イントロクイズに夢中ですね(笑)。年に2度ほど、全国から数十名の有志が集まる大会があるんですが、おかげさまで15回開催中、もう9回優勝しています。当面は10勝が目標ですね。訓練のために、iPodに歴代のオリコン週間チャートに入った曲のイントロとサビだけを編集して入れて、通勤の合間にずっと聴いているんですよ。10位までの曲はコンプリートしたので、今は20位までのコンプリートを目指してます。もちろん、最新の曲も覚えなくてはいけないので、毎週1回、レンタルショップに通って、該当する曲を借りまくってますね。僕と同年代の人は、新しいアーティストを覚えられないとボヤいていますが、この趣味のおかげで、僕は大丈夫(笑)。将来的にはもう一度、円周率でギネスに挑戦したい野望もあるんですが、暗記を始めると絶対に仕事をしなくなるのがわかってますから、そちらは定年後の楽しみにとっておこうと思います」

Profile
後藤裕之(ごとう ひろゆき)
1973年8月2日生まれ。東京都出身。慶應義塾大学環境情報学部卒業。大学時代はクイズ研究会に所属し、数々のクイズ大会に挑戦すると共に、自らもクイズ問題をつくるアルバイトにいそしむ。さらに、大学3年時には円周率暗唱でギネスブックにチャレンジ。1995年2月18日、42,195桁暗唱の世界記録を樹立した。1999年、ナムコ(現バンダイナムコゲームス)に企画職として入社。文字を使ったパズルという画期的なコンセプトを持つ『ことばのパズル もじぴったん』をゲームデザインし、大ヒットを飛ばす。
Q&A
Q 音楽でも映画でも食べ物でも、好きなものを教えてください。
A 1.イントロクイズ
2.(ブレイク以前の)倖田來未
3.漢字
4.自転車
5.タイカレー
6.銭湯
7.麻雀
8.Wikipedia
(※順不同)
Q 尊敬する人は誰ですか?また、その理由も教えてください。
A

1.友寄英哲(ひであき)さん
【π暗唱 前々世界一、40000桁】
この方が記録を作っていなければ、自分は挑戦していなかったと思います。
2.原口證(あきら)さん
【π暗唱 現世界一、83431桁】
還暦に近い年齢での大記録達成は、自分の将来の励みになりました。
また、新しい目標を作ってくれたことにも感謝しています。

Q 今、一番楽しみにしていることは何ですか?
A 近々、イントロクイズの大会があるので、記念すべき10回目の優勝を果たしたいです。
Q 今、一番欲しいものは何ですか?
A 古いレコードや貴重なCDなど、日本で出た曲を全て所蔵した超巨大ツタヤ。
Q 最近感動したことは何ですか?
A 小学校〜高校あたりの何人かの旧友から、「作ったゲーム、面白かった」といわれたこと。
Q 時間が出来たらやりたいことは何ですか?
A 3年遊んで暮らせるなら、円周率を覚えて新記録(10万桁)を目指します。
Q 座右の銘はありますか?
A 「井の中の蛙 大海を知らず されど空の深さ(高さ・青さ)を知る」
Q もしゲームクリエイターになっていなかったら、どんな職業に就いていたと思いますか?
A (三流の)放送作家。(二流の)パズル作家。
Q 生まれ変わってもゲームクリエイターになりたいですか?
A 10回生まれ変われるなら、あと2回はなりたいです(5回目あたりと10回目)。
Q 今まで手がけたゲームの中でいちばん印象に残ったタイトルは何ですか? また、その理由も教えてください。
A 業務用の『もじぴったん』(2001年末)。
会社に住み込んで毎晩毎晩、何冊もの分厚い国語辞典とにらめっこしながら作り上げただけに、世に出た時の喜びもひとしおでした。
後藤裕之氏の軌跡
幼稚園時代
積み木遊びにはまる。
バイオリンを習うも挫折。ピアノに転向。
小学校高学年
ゲームブーム到来。
中学校時代
吹奏楽部でチューバを担当。
音大付属進学を断念。
高校1年生
応援指導部入部。
高校3年生
ゲームプログラミングに没頭。
大学時代
クイズ研究会入会。
円周率ギネス記録達成。
テレビ番組制作会社でのアルバイト。
1999年
株式会社ナムコ入社。
2001年
『もじぴったん』発売。
2003年
自転車で横浜〜博多完走。
2004年
自転車で横浜〜札幌完走。
関連資料
photo
ギネス・ ワールド・レコーズ社より送られた 円周率のギネス記録認定証。
関連作品
ジャケット
ことばのパズルもじぴったん大辞典
PSP® the Best
ジャケット
ことばのパズル もじぴったん
PlayStation®2 the Best
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Back Number
2006年8月 上田文人氏
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