| 後藤さんが進学した学部は環境情報学部。そのキャンパスは慶應大学の一般の学部がある横浜市・日吉からは離れた藤沢市にあった。しかし後藤さんは、藤沢キャンパスにはほとんど行かず、またしても学業以外に人生を打ち込む“あるもの”を見つけてしまう。
「全国的にも有名だった“クイズ研究会”に入りました。子供時代の夢のひとつが、アメリカ横断ウルトラクイズに優勝することでしたから(笑)。当時は、テレビもクイズブームでしたし、もともとパズルやクイズが大好きでした。高校時代もゲームセンターのクイズゲームに毎日お金をつぎ込んで100%クリアしたり、高校生クイズの番組に出場したりしてましたから、大学ではクイズに全力を注ごうと思ったんですね」
大学の部室でミニクイズ大会を開いたり、先輩のアパートに泊まりこみで自分たちのつくった問題を解きあったり、テレビのクイズ番組にチャレンジしたり。残念ながら、後藤さん自身はテレビ番組への出場はなかったが、大学クイズ研究会としてかなりの知名度を誇っていた慶應クイズ研究会は、番組のエキストラなども依頼されていた。そして、大学3年のとき。後藤さんはNHKのあるクイズ番組収録で、ある出来事に会ってしまった。
「NHKのスタッフの人が、大学生がエキストラとして集まっているのをいいことに、ドキュメンタリーの新番組に関するアンケートを採ったんですね。そのドキュメンタリーの内容が、若者が何かにチャレンジする姿を追う企画だったんです。そこで、あなたの夢を書いてくれといわれて、僕は冗談半分で『円周率暗唱のギネス記録に挑戦したい』と書いたんですよ。そうしたら、番組スタッフが面白がってしまったらしく……。冗談で書いたことですから、最初は断るつもりでスタッフと面談したんですが、相手が女性で、しかもちょっと好みのタイプだったもので、つい乗せられて引き受けてしまったんです(笑)」
番組づくりの都合もあって、準備期間は半年と決められた。当時の記録、40,000桁をクリアするために、後藤さんは大学の授業もそっちのけで、ひたすら円周率を暗記した。そして、半年後……。
「17,670桁目で詰まってしまい、見事に失敗し、その様子も放送されました。ただ、僕がその会場を去ろうとしたとき、それまで僕によくしてくれていたカメラマンの方が、『もう1回やろうな』と温かい声をかけてくれたんです。それにジーンとしてしまい、あとからまた電話を掛けて、半年後に再チャレンジをさせてほしいと申し出ました」
そこから、また半年間の苦闘が始まった。今度こそ、という思いと、二度は失敗できないというプレッシャーの中、1995年2月18日。9時間21分30秒、食事もとらず極度の緊張と共にカメラの前で円周率の暗唱を続けた後藤さんは、ついに42,195桁の世界記録樹立に成功した。ちなみに、この記録は、2004年まで破られることはなかった。
「1995年は、ちょうど1月に阪神淡路大震災があったんですが、再挑戦の日までずっと家に閉じこもって、外部の情報を全く目に入れずにいたので、そんな大災害が起こっていたこともまったく知りませんでした。何の娯楽もなく、ひたすら数字を覚えることに集中していましたね。結局、1年間ほとんど大学に通えなくて留年してしまったんですけど、ギネスブックのおかげで、大学の学部長賞をもらってしまいました。ふつうは学業の成果が認められる賞なんですが、番外編として特別に(笑)。ほかにも、取材をたくさん受けたり、伊勢丹デパートのスーツの新聞広告に出演できたりと、面白いことがありましたね」
ギネスへの挑戦で、クイズのほうも1年間ご無沙汰していた後藤さん。大仕事を終えた彼の興味は、クイズを解くほうからつくるほうへとシフトしていた。
「ギネスへの挑戦が終わり、大学3〜4年生の頃から今度はクイズ番組や視聴者参加番組をつくる放送作家になりたくて、クイズ研究会で繋がりもあった番組制作会社に電話をかけてアルバイトに雇ってもらいました。最初は雑用でしたが、徐々にクイズの問題や番組のルールをつくるような重要な仕事をやらせてもらえるようになりましたね。性格的なものでしょうか、重箱の隅をつつくような問題をつくるのが得意だったので、いろいろとクイズ番組に問題が採用されました」
実は後藤さんには、大学卒業後、その制作会社の正社員への道も開けていたという。だが、仕事を続けるうちに後藤さんの心は、放送作家とは別の道へと少しずつ傾いていった。
「僕はもともと、クイズ番組や『風雲たけし城』的な視聴者参加型番組の放送作家がやりたくてアルバイトで見習いを始めたんですが、徐々にそういった番組も下火になり、視聴率を取っている番組が必ずしも面白い番組ではないことにも気づき……。やっぱり、テレビは番組を楽しんでいる人の反応を生で知ることはできない。だったら、もっと人を楽しませることに特化したものにかかわりたいと思って、大学卒業の半年前に、ゲーム制作のほうに進むことを決意しました」 |