| ファミコンブームから始まる家庭用ゲームの歴史を、リアルタイムで体験。さらに高校時代、精力的に映像エンタテインメント文化に浸った理系少年の小林さんは、大学ではコンピュータ――その中でも、当時加速度的に進化を始めたコンピュータグラフィックスを学ぶことを決意する。
「大学に入学したのは1991年。センター試験の第1回目の年ですね。そのまま愛知県で、中京大学に進学しました。前の年に、ちょうど情報科学部情報科学科というコンピュータ系の学科が新設されたんですよ。僕らの時代は理系では電子・電気系が人気で、機械系はすたれつつあった。僕は昔からコンピュータに興味があったこともあり、最先端の情報処理が学べる大学はないかと探しました。この新設学科に入れたのは、よかったですね。新設だけに、全国から優秀な先生が集まっていたので、いい先生にたくさんめぐり合えたんです。映画が好きだった僕は、ハリウッドのCGに非常にも興味があったので、3年生からの専攻はCGに決めました。時期的にも、本格的なCGエンタテインメントが盛んになってきた頃でね。映画なら『ターミネーター』とか……テレビでは『ウゴウゴルーガ』。アーケードゲームが『リッジレーサー』と『バーチャファイター』の時代です。3DのCG技術は、すごく面白そうだった」
目的がはっきり決め込まれた大学時代は、小林さんに仕事に向かう目標だけでなく、人格的にも大きな影響を与えた。これも新設学部ならでは。面倒見のいい先輩と仲間、後輩たちとの出会いが、それまでのおとなしかった小林さんの性格を大きく変えた。
「勉強以外の活動も、盛んにやってましたね。そこも新設学科のよさで、先輩や先生とフレンドリーに付き合えて。そこでまず僕は、先輩の誘いもあって学祭の実行委員会に入ったんです。歴史の浅い学部だからこそ、学部祭も盛り上げようということになって。学部長や教授の部屋にカンパを頼みにいって、研究発表をやって、もぐら叩き風のゲームをつくって遊んでもらって……いろいろな新しい催しを実行するのは、とっても面白かった」
高校時代は自宅でマンガ、ビデオ、そしてゲームを唯一の楽しみとしていた小林さん。しかし、大学時代は仲間との遊びとバイトにいそしみ、家にいつかない青年となっていた。
「学部があった校舎は、家からクルマで1時間かけて通う豊田市にあって、正直、田舎だったんです(笑)。だから、引きこもり的だった高校時代とはうって変わって、大学からは急にアウトドアな人間になりましてね。まったく家にいなくて、サークル活動とバイトをやりながら遊んでばかりいましたよ。バイトは……クルマで寿司屋の配達、家庭教師、スキーショップの店員……いろいろやりました。スポーツもいろいろ。大学3〜4年の時代は、冬は週に2回は岐阜や長野にスキーにいってたし、3年生のときにはみんなでスポーツをやるために新しいサークルをつくったり、後輩が集ってたテニスサークルに入ったり。大学時代はとにかくアグレッシブでしたね」
そんな楽しい大学生も、3年、4年になると遊んでばかりもいられない。就職活動が待っている。もちろん、小林さんの志望はCGグラフィックのスキルをいかせる会社だった。
「就職活動を始めたのは、大学3年の終わり。1994年、まさにプレイステーションとセガサターンが発売された年です。ゲームのCGがどんどんすごくなってきた。僕自身はやはりCG方面に進みたくて、大手家電メーカーのソフト系の仕事を探したんですが、その時代は意外とCGを扱ってないんですよ。システム・エンジニア系の職はたくさんあるんですが、僕自身はプログラムはあんまり好きじゃなかったですしね。そこで引っ掛かってきたのが、CGへのアプローチに積極的だった、ゲーム業界。ゲーム業界もいいな、と思った理由のひとつは、企業説明会が面白かったから(笑)。そこで、まず試験の早かったナムコとセガから受けたんですけど……見事に落ちまして(笑)。次に目をつけたのがカプコンだったんです」
どうせゲームを仕事にするのなら、高度な3DCGを扱えるアーケードゲーム制作が第一志望だったという小林さん。だが、無事にカプコンに入社を果たしたものの、配属された先は……。
「カプコンに入ってみると、配属先はコンシューマ。次世代機の時代がやってきていたので、コンシューマのほうに人をつぎ込んでいたんですよね。始めは少しガッカリしましたけど、そこでもとにかく3Dのゲームがつくりたくて、“3DCGができるチームに入れてください”と上司にお願いしてすぐに配属されたのが、当時、社内でホラーチームと呼ばれていた『バイオハザード』のプロジェクトだったんです。当時の『バイオ』チームは、社内でも余り期待されていなかった新規チーム。ひとつ上のディレクター・三上(真司)さんを筆頭に、若手ばかりが集められていました。当然、このゲームがいきなり当たるとは、チーム内の人間以外、誰も思っていなかった。でも、だからこそトンがったことがやらせてもらえて、ミリオンヒットにつながったんだと思います」 |