クリエイターはムチャを言う生き物。“できないムチャ”を“できるムチャ”に変えるのがプロデューサーの仕事。 小林裕幸
「あの人はなぜ、ゲームクリエイターへの道を進んだのか?」
「独自の感性、ゲームづくりのセンスはどこで磨かれたのか?」
個性的な作品をつくり出す注目のゲームクリエイターに“あなたができるまで”を訊くロングインタビュー「THE EARLY DAYS」。
第3回目のゲストは『戦国BASARA』シリーズ、『デビル メイ クライ 4』のプロデューサー・小林裕幸さん。
取材・文/阿部美香(ライター)
Profile
小林裕幸(こばやし ひろゆき)
1972年8月12日生まれ。名古屋市出身。中京大学情報科学部情報科学科では、多数のサークル活動に参加しリーダーシップを執る。1995年、カプコンにプログラマーとして入社。すぐに『バイオハザード』の開発チームに配属され、その後も『ディノクライシス』などの開発に参加。1999年には『ディノクライシス2』のプロデューサーに抜擢され、以後、『デビル メイ クライ』『バイオハザード4』『戦国BASARA』シリーズなど、個性的なアクションゲームを数多くプロデュース。現在は、“PLAYSTATION 3”で『デビル メイ クライ4』を開発中。先日の「東京ゲームショウ2006」でも体験版が大好評を博した。
Q&A
Q 音楽でも映画でも食べ物でも、好きなものを教えてください。
A 音楽:
ZARD
Do As Infinity
福山雅治
アヴリル・ラヴィーン
ブリトニー・スピアーズ
土屋アンナ
OLIVIA
映画:
『バック・トゥ・ザ・フューチャー』
『ターミネーター2』
『デスペラード』
『ブレイド』
『マトリックス』
『スター・ウォーズ』
TV番組:
『24』
『X-ファイル』
『機動戦士ガンダム』
『サムライチャンプルー』
『カウボーイビバップ』
食べ物:
パスタ、味噌かつ、手羽先、
てんぷら、お好み焼き
Q 尊敬する人は誰ですか?また、その理由も教えてください。
A

父、真面目で仕事熱心、家を守る男という感じ。

Q 今、一番楽しみにしていることは何ですか?
A 新たに作品を作ること。
Q 今、一番欲しいものは何ですか?
A 時間。
Q 最近感動したことは何ですか?
A 『戦国BASARA』のイベントでファン1000人に応援してもらえるのを生で感じたこと!
Q 時間が出来たらやりたいことは何ですか?
A 観たい映画をずっと観続ける。
Q 座右の銘または好きな言葉はありますか?
A 特に無いですが「言葉は力」だと思います。
Q もしゲームクリエイターになっていなかったら、どんな職業に就いていたと思いますか?
A エンタメ業界にはいるかな?
Q 生まれ変わってもゲームクリエイターになりたいですか?
A ゲームに限らずクリエイターではいたいと思います。
Q 今まで手がけたゲームの中でいちばん印象に残ったタイトルは何ですか? また、その理由も教えてください。
A 『バイオハザード』、最初にゲーム制作に参加したタイトルだから。
小林裕幸氏の軌跡
小学校時代
剣道を始める。
MSXでプログラミングを始める。
中学校時代
念願のファミコン購入。 アクションゲームに目覚める。
高校時代
学園祭のない高校に入学、後悔する。
インドアな少年に。
マンガにはまる。
大学1年生
CGを専攻する。
面倒見のいい先輩との出会いで一気に社交的に。
1995年
プログラマーとしてカプコンに入社。
1996年
『バイオハザード』発売。
1998年
『バイオハザード2』発売。
1999年
『ディノクライシス』で初プランナー。
2000年
『ディノクライシス2』で初プロデュース。
2001年
『デビルメイクライ』発売。
2002年
『バイオハザード(リメイク)』発売。
2005年
『バイオハザード4』発売。
『戦国BASARA』発売。
2006年
『戦国BASARA2』発売。
現在
『デビルメイクライ4』制作中。
関連作品
ジャケット
デビルメイクライ
PlayStation®2 the Best
ジャケット
戦国BASARA2
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ファミコンが欲しかった小学生時代、だが……?

photo「いろんなインタビューを受けてきましたけど、子供時代からの思い出を聞かれるなんて生まれて初めてですよ(笑)」と、人なつっこい笑顔を見せる小林さんは、1995年のカプコン入社以来、個性的なアクションゲームを手がけ続けてきた。生まれは愛知県名古屋市。有名な繁華街・栄からほど近い都会の真ん中で子供時代を過ごした。

「子供時代の思い出といえば……やっぱりゲームですよね。ファミコンが友達の間で流行ったのが、小学校5年生くらい。最初はハードを持ってなくて、近所の友達の家にほぼ毎日通って『ベースボール』とか『マリオブラザース』を遊んでいたことを思い出しますね。でも、僕のコンピュータ体験は、それより少し前、名古屋の家電店のパソコンコーナーでパソコンを触ってた時代に遡ります。それが小学4年生くらい。いとこの家にFM-7かなんかがあって、BASICでちょっとしたプログラムを組んだりして遊んでました。ファミコンでも遊んでいたし、駄菓子屋の店先でアーケードゲームもやってましたし、パソコンでも『信長の野望』なんかを遊んでいたり。ゲームとの出会いは、その全部が重なっていましたね」

 当然、子供たちに熱狂的なブームを巻き起こしていたファミコンを両親にねだった。しかし、返ってきた言葉は……。
「ダメ! のひと言でした(笑)。その代わり、小学5年生の時、親が買ってくれたのがMSX。コンピュータで勉強しろ、と。でも、そんなの無理に決まってますよね? 当然、僕はMSXで『ディグダグ』や『ラリーX』を遊びまくってました。友達の間では、唯一のMSXユーザーでしたが、誰もうらやんでくれなかった(苦笑)。パソコンショップのこともよく知らなかったので、MSXでできるゲームソフトを探しに、自転車で栄や今池の街を駆けずり回っていました」

 それでも、小さい頃から機械好きだった小林さんは、徐々にパソコンでプログラムを組む面白さになじんでいった。とはいえ、小学生が自作のプログラムを組むスキルを会得するのは荷が重い。そういう初心者のために、当時は、ゲームなどの簡単なプログラムを掲載した雑誌や単行本が売られていたのだ。

「本に載ってるプログラムを真似して打ち込んで、テニスゲームらしきものや砲台から弾を撃つゲームなんかを遊んでました。でも、よく写し間違えや打ち込み間違いもありまして、“どうして上手く動かないんだ!”なんてこともたくさんあって。……僕は小学校の頃から、バグと闘ってたんですよ(笑)」

 とはいえ、ただ家にこもってゲームばかりをやっていたわけではなかった。その頃、大ブームを巻き起こしていたガンプラをほとんど揃えていたり、そろばん塾に通ったり。さらに、小林さんは「僕は子供の頃、今よりずっと太ってて、運動音痴で……」と言うが、運動にも励んでいた。小学校のクラブ活動では、水泳と野球。学校以外でも、剣道場に入門して週に一度、厳しい稽古をつけられていたという。

「初めて、自分からスポーツをやりたいと言い出したのは幼稚園くらいの頃。マンガの『六三四の剣』が好きで、剣道をやってみたくて道場を見学にいったんですが、あまりにも幼なすぎて断られまして。僕自身は小学校に入る頃には、そんな思い出は忘れていたんですよ。ところが親はしっかりそれを覚えてて、気がついたら剣道を習わされてました。“あんた、剣道やりたいって言ってたじゃない”って(笑)。でも、すでに僕の中の『六三四の剣』ブームは過ぎ去っていたので、もう毎週の練習もイヤイヤですよ。先生の面や小手が痛くて痛くて(笑)。イヤイヤと思いながらも、結局は6年生まで続けてしまい……“中学校では剣道部に入るから、道場は辞めさせてくれ”と親に泣きつきました」

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デビル メイ クライ 4

ゲームとマンガと剣道に明け暮れた中学時代

photo インドアな趣味とスポーツを両立させていた小林少年。今、目の前で思い出話に興じる快活な小林さんに、「では、昔もさぞ活発で明るい少年だったんでしょう?」と水を向けると?

「残念ながら、ものすごく人見知りで……人と全然喋らない子でしたね。愛想もないし。今とは全く違うなぁ(笑)。人と会っても挨拶もできなくてね。ひとつ下の妹と一緒に歩いてても、僕のほうが弟だと思われるくらい、おとなしい子供でしたね」

 ご両親が小林さんにスポーツを奨励したのも、もっと活発な少年になってほしいという願いの表われだったのかも知れない。そして、中学に上がった小林さんを待っていたのは、剣道場を辞めたときに入ると約束した、剣道部のランニング地獄だった。

「中学校の思い出といえば、剣道部ですね。かなり人数の少ない部だったので、2級しか持ってなかった僕でもレギュラーになれました。部活は毎日。毎日、ハカマ姿でランニングしてましたよ。それがまたイヤでしょうがない(笑)。でも、道場を辞めて剣道を部活でやるという親との約束があったので、3年間イヤイヤ続けました」

 もちろん、ゲームへの情熱もすたれてはいなかった。小学校時代、親の反対で手に入れられなかったファミコンを、ついに自腹で購入。ここで、のちの小林さんのアクションゲーム志向を決定付けるタイトルに出会ってしまう。

「どうしてもアーケードでハマってた『ドルアーガの塔』を自宅でやりたくて。そして……『スーパーマリオ』に出会ってしまうんですよ(笑)。あれはやり込みましたね。攻略本を買ってきて、裏ルートも裏技も全部試して。だから、部活が終わったら、すぐ家でゲームですよ。『マリオ』シリーズはもちろん、『メトロイド』や『パルテナの鏡』『謎の村雨城』……。ディスクシステムの思い出のタイトルもたくさんある。ただ、『ゼルダの伝説』だけはやらなかった! 『リンクの冒険』は大好きだったんですが……結局、その頃からもっぱらアクションゲーム。『ドラクエ』も1作目は触ってみたんですが、経験値を溜めるのが面倒で、最後のボスをクリアせずに止めちゃいました。それ以来、アクション性のないRPGは1作もやってないです(苦笑)」

 言われてみれば確かに、『バイオハザード』『ディノクライシス』『デビル メイ クライ』『戦国BASARA』と、小林さんが手がけてきたカプコンタイトルは、すべて硬派なアクションが売り。特にプロデューサーとしてかかわったヒット作『デビル メイ クライ』『戦国BASARA』は、そこに登場するヒーローの個性的な人物造形も特徴的だ。

「『少年ジャンプ』っ子でしたから(笑)。当時いちばん好きだったのは『聖闘士星矢』。車田正美先生の作品はそこから遡っていろいろ読みました。同じヒーロー物でも、“負けて頑張る”というベタなヒーロー像が好きでした。熱血がいいんですよね。ドラマも『あぶない刑事』とかの“刑事(デカ)系”が大好きで。その頃の熱血ヒーロー好きは、今でも変わってないんじゃないかな?」

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戦国BASARA2

地味な高校生活にショックを受けインドア少年に

photo そして、高校受験がやってきた。好きな教科は数学や物理で、国語と英語は嫌い。典型的な理系少年だった小林さんが選んだ学校は、「ラクをしたいから」という理由で受験した市立の新設校。ところが?

「……高校時代は楽しくなかったなぁ。いちばん衝撃を受けたのは……なんとその高校には学園祭がなかった! 入学してそれを聞いたとき、“オレの高校生活は終わったな……”と思いましたね(笑)。校風も厳しくて、体育の時間は必ず、まずランニング。毎週、走ってばっかりですよ。マラソン大会なんか大嫌いでしたね」

 小林さんは、とにかく入学直後から進学先にガッカリしたと苦笑まじりに語る。アクティブだった中学時代から一転、部活もやらず、放課後の行事といえば週2〜3回の塾通い。楽しみといえば……。

「マンガ好きがますます加速してました。いちばん好きだったのは『ドラゴンボール』。麻宮騎亜先生が好きだったので『サイレントメビウス』とか……ほかには『寄生獣』とかね。週刊誌、コミックス、古本を読みふけっていて、そこからアニメにも。ちょうどレンタルビデオが盛んになっていった時代なので、OVAや映画を借りまくって。……中学時代と比べて、一気にインドアな少年になりました(苦笑)。ゲームもね……友達はゲーム好きが多かったですけど、僕はいったんゲームを離れてました。復活したのは高校3年生のときですね。みんなはスーパーファミコンをやってましたが、僕は持っていなくて、高3で急にメガドライブを買い込みました。高3で大学受験のために河合塾に通っていたんですが、近所にゲーセンがあって、そこで『ゴールデンアックス』とかにハマってたんですよ。それを家でもやりたくてメガドライブ。『孔雀王』『ザ・スーパー忍』……そして『天地を喰らう』『超魔界村』『ファイナルファイト』。あぁ、やっとカプコンのタイトルが出てきた(笑)。とにかく、横スクロールアクションが好きでしたね」

 愛想のない性格はそのまま。高校時代の地味な生活を「今で言えば引きこもりに近い」と笑う小林さんだが、この時期の彼には、マンガやアニメ、映画の知識がどんどん溜め込まれていった。青春ドラマに出てくるような、恋愛エピソードもなかった?

「ないない、ひとつもない!(笑) 高校時代、僕のことを好きだと言ってくれた女の子もいたんですが……相変わらず、愛嬌のない男だったし、残念ながら、当時の僕は女の子と付き合うことに全く興味がなくて。ゲームやったりマンガを読んでるほうが、断然面白かった。思い返せば、高校時代は“クリエイティビティを溜める”期間だったんじゃないかと思うんですよね」

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デビル メイ クライ 4

勉学にサークルにとアグレッシブな大学時代

 ファミコンブームから始まる家庭用ゲームの歴史を、リアルタイムで体験。さらに高校時代、精力的に映像エンタテインメント文化に浸った理系少年の小林さんは、大学ではコンピュータ――その中でも、当時加速度的に進化を始めたコンピュータグラフィックスを学ぶことを決意する。

「大学に入学したのは1991年。センター試験の第1回目の年ですね。そのまま愛知県で、中京大学に進学しました。前の年に、ちょうど情報科学部情報科学科というコンピュータ系の学科が新設されたんですよ。僕らの時代は理系では電子・電気系が人気で、機械系はすたれつつあった。僕は昔からコンピュータに興味があったこともあり、最先端の情報処理が学べる大学はないかと探しました。この新設学科に入れたのは、よかったですね。新設だけに、全国から優秀な先生が集まっていたので、いい先生にたくさんめぐり合えたんです。映画が好きだった僕は、ハリウッドのCGに非常にも興味があったので、3年生からの専攻はCGに決めました。時期的にも、本格的なCGエンタテインメントが盛んになってきた頃でね。映画なら『ターミネーター』とか……テレビでは『ウゴウゴルーガ』。アーケードゲームが『リッジレーサー』と『バーチャファイター』の時代です。3DのCG技術は、すごく面白そうだった」

 目的がはっきり決め込まれた大学時代は、小林さんに仕事に向かう目標だけでなく、人格的にも大きな影響を与えた。これも新設学部ならでは。面倒見のいい先輩と仲間、後輩たちとの出会いが、それまでのおとなしかった小林さんの性格を大きく変えた。

photo「勉強以外の活動も、盛んにやってましたね。そこも新設学科のよさで、先輩や先生とフレンドリーに付き合えて。そこでまず僕は、先輩の誘いもあって学祭の実行委員会に入ったんです。歴史の浅い学部だからこそ、学部祭も盛り上げようということになって。学部長や教授の部屋にカンパを頼みにいって、研究発表をやって、もぐら叩き風のゲームをつくって遊んでもらって……いろいろな新しい催しを実行するのは、とっても面白かった」

 高校時代は自宅でマンガ、ビデオ、そしてゲームを唯一の楽しみとしていた小林さん。しかし、大学時代は仲間との遊びとバイトにいそしみ、家にいつかない青年となっていた。

「学部があった校舎は、家からクルマで1時間かけて通う豊田市にあって、正直、田舎だったんです(笑)。だから、引きこもり的だった高校時代とはうって変わって、大学からは急にアウトドアな人間になりましてね。まったく家にいなくて、サークル活動とバイトをやりながら遊んでばかりいましたよ。バイトは……クルマで寿司屋の配達、家庭教師、スキーショップの店員……いろいろやりました。スポーツもいろいろ。大学3〜4年の時代は、冬は週に2回は岐阜や長野にスキーにいってたし、3年生のときにはみんなでスポーツをやるために新しいサークルをつくったり、後輩が集ってたテニスサークルに入ったり。大学時代はとにかくアグレッシブでしたね」

 そんな楽しい大学生も、3年、4年になると遊んでばかりもいられない。就職活動が待っている。もちろん、小林さんの志望はCGグラフィックのスキルをいかせる会社だった。

「就職活動を始めたのは、大学3年の終わり。1994年、まさにプレイステーションとセガサターンが発売された年です。ゲームのCGがどんどんすごくなってきた。僕自身はやはりCG方面に進みたくて、大手家電メーカーのソフト系の仕事を探したんですが、その時代は意外とCGを扱ってないんですよ。システム・エンジニア系の職はたくさんあるんですが、僕自身はプログラムはあんまり好きじゃなかったですしね。そこで引っ掛かってきたのが、CGへのアプローチに積極的だった、ゲーム業界。ゲーム業界もいいな、と思った理由のひとつは、企業説明会が面白かったから(笑)。そこで、まず試験の早かったナムコとセガから受けたんですけど……見事に落ちまして(笑)。次に目をつけたのがカプコンだったんです」

 どうせゲームを仕事にするのなら、高度な3DCGを扱えるアーケードゲーム制作が第一志望だったという小林さん。だが、無事にカプコンに入社を果たしたものの、配属された先は……。

「カプコンに入ってみると、配属先はコンシューマ。次世代機の時代がやってきていたので、コンシューマのほうに人をつぎ込んでいたんですよね。始めは少しガッカリしましたけど、そこでもとにかく3Dのゲームがつくりたくて、“3DCGができるチームに入れてください”と上司にお願いしてすぐに配属されたのが、当時、社内でホラーチームと呼ばれていた『バイオハザード』のプロジェクトだったんです。当時の『バイオ』チームは、社内でも余り期待されていなかった新規チーム。ひとつ上のディレクター・三上(真司)さんを筆頭に、若手ばかりが集められていました。当然、このゲームがいきなり当たるとは、チーム内の人間以外、誰も思っていなかった。でも、だからこそトンがったことがやらせてもらえて、ミリオンヒットにつながったんだと思います」

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戦国BASARA2

仲間と共にムチャを形に〜プロデューサー・小林裕幸として

 それからの活躍は、みなさんもご存知のとおりだ。だが、小林さんは、実はディレクション職を経験せずにプロデューサーに抜擢されていた。『バイオハザード』など、斬新なゲームディレクションには定評のあった、当時の直属の上司・三上真司氏に呼ばれ、いきなりプロデューサーにならないか?と相談されたのだ。始めは冗談だろうと思った小林さんだったが?

「『バイオ』シリーズのプランナーのとき、三上(真司)さんに、“プロデューサーやってよ”と言われたときは、ディレクターの経験もろくにない僕がプロデューサーになるなんて、いつもの三上さんの悪い冗談が出た、と思ったんですよ(笑)。三上さんの仕事の斬新なアイデアを目の当たりにしてきましたから、僕が優秀なアイデアマンじゃないことは、僕自身がいちばんよくわかっていた。その代わり……というわけではないですが、プロモーションに興味があったり、お客さんを意識した物づくりに興味があったり、流行り物を貪欲に追っていったりという、プロデューサー的な物の見方が、プロデューサーという仕事で発揮できるんじゃないかと思うようになっていったんです」

 しかもゲームづくりは集団作業だ。大学時代にさまざまなサークル活動を牽引してきた小林さんは、わがままな人間集団のトップに立つ難しさも、だからこその楽しさも経験として十分に知っていた。

photo「もともと、仲間と一緒に何かすることが好きなんですよ。人を取りまとめるという意味では、プロデューサーの仕事には、大学時代のサークル活動もとても役立っているように思えます。クリエイターというのは、基本的にムチャを言う生き物。でも、それを“できるムチャ”に変えていくのがプロデューサーの仕事だと思うんですよね。“できないムチャ”も当然あるんですが、やっぱり人がやらないことにチャレンジするのは面白い。プロデューサーに求められるのは、できるだけ、人がやれないことにチャレンジできる土壌をつくってあげることですよね」

 そして、ここから先、小林さんが目指す作品は……?

「個人的には、大好きな“アクションゲーム”をつくり続けていきたいですね。アクションゲームでやれることはもう出尽くした、と言われることも多いですが、まだまだこのジャンルでやれることはあると思うんです。実際、『戦国BASARA』シリーズでも、アクションの可能性に一歩踏み出せたと思いますし、開発中の“PLAYSTATION 3”『デビル メイ クライ 4』も、それができているタイトル。これから先も、アクションゲームを職人的に極めたいと思ってます」

 とはいえ、本人自ら「僕、けっこうミーハーですからねぇ(笑)」と語るほど、エンタテインメントを追い求める貪欲さもある。ゲーム以外の方面にも、興味はつきない。

「遠い将来は、ゲームに限らず、スーパープロデューサーになるのが夢かなぁ。基本はエンタテインメントのジャンルで、なんですが……できれば、飲食とか空間とか、もっと幅広いジャンルも網羅するような。好みでいうと、パスタが好きなので、パスタ屋をプロデュースするような仕事とかね。カプコンが飲食店経営に乗りだすようなことがあれば、ぜひ実現させたいんですけど……こればっかりは“できないムチャ”かも知れないなぁ(笑)」

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デビル メイ クライ 4
◇よろしければ今回のインタビューのご感想をお聞かせください。
Back Number
2006年9月 後藤裕之氏
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