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「あの人はなぜ、ゲームクリエイターへの道を進んだのか?」「独自の感性、ゲームづくりのセンスはどこで磨かれたのか?」
個性的な作品をつくり出す注目のゲームクリエイターに“あなたができるまで”を訊くロングインタビュー企画「THE EARLY DAYS」。第5回のゲストは、少年時代にPCゲームに魅了され、現在はレベルファイブ代表取締役社長/プロデューサーとして『ローグ ギャラクシー』『ジャンヌ・ダルク』ほか数々の大作を手がけている日野晃博さんだ。 |
| Profile |
日野晃博(ひの あきひろ)
1968年7月20日生まれ。福岡県出身。レベルファイブ代表取締役社長。幼い頃からPCゲームに親しみコンピュータ専門学校卒業後、地元福岡のシステムソフト、リバーヒルソフトを経て、1998年10月レベルファイブを創業。リバーヒルソフト時代にプログラマー/ディレクターとして、“PS”黎明期を代表する3Dアドベンチャーゲーム『オーバーブラッド』シリーズを手がけ、レベルファイブ設立以降は『ダーククラウド』『ダーククロニクル』『ローグ ギャラクシー』『ジャンヌ・ダルク』(以上SCE)など意欲的な作品のゲームデザイン、プロデュースで高い評価を受ける。ディレクションを担当した『ドラゴンクエストVIII 空と海と大地と呪われし姫君』(スクウェア・エニックス)でもシリーズに新境地を拓く。2005年には、福岡を拠点とするゲーム開発会社を中心とした団体「GFF」会長に就任。九州大学とのコラボレーションなど、斬新な活動を積極的に進めている。現在は『白騎士物語(仮)』をPLAYSTATION®3で開発中。 |
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| Q&A |
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| 日野晃博氏の軌跡 |
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少年時代
福岡県大牟田市でやんちゃな少年時代を過ごす
小学校時代
絵のコンテストに何度も入選する コンピュータと出会う
中学時代
プログラミングにハマる PCゲームにハマる
高校時代
青春に目覚めるプログラマーの道を進むことを決意する
専門学校
ゲーム会社入社のためグラフィックエディタとRPGを自作する
1988年
システムソフト入社 リバーヒルソフトへ転職
1998年
(株)レベルファイブ設立
2004年
「ドラゴンクエストVIII」発売
2005年
「ローグギャラクシー」発売
2006年
「ジャンヌ・ダルク」発売
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福岡県・大牟田市。炭坑の町として栄えた福岡県南端の市で、日野晃博さんは生まれた。「僕の住んでいたところはけっこうな田舎で、昔ながらの育ち方をしていました」と語る日野さんは、小学生時代「木に登って遊んだり、柿をもいでおやつにしたり。昔は高い水道塔が近所にあって、そこからまわりの家に水が供給されてましたから、そこに登って遊んだり」とアクティブな少年だったと笑いながら言う。その彼の人生の中で、いちばん古いエピソード。それは生まれた瞬間の話だ。
「僕は、すごい未熟児だったんですよ。出産予定日の3ヶ月前に生まれてしまい、寝かせると、ふつうのタオルに収まっちゃうくらい小さかったらしいんです。お医者さんも、命が助かるかどうかわからないと言ってたらしくてね。でも、そこで祖母がミルクをガバガバ飲ませて、1ヶ月後にやっと生命の危機を脱することができたんですよ」
その後はすくすくと成長。両親が共働きだったという日野さんは、ミルクを飲ませて命の危機を救ってくれたお祖母さんに可愛がられて育った。家族の愛情に恵まれ、伸び伸びと育った日野さんは、当時を振り返って「僕はとても少年らしい少年だった。だから、いたずらもよくしました。悪気はまったくないんですが、ヤンチャの限度がわかっていなかったんですよね」と苦笑する。そんな日野さんを、お祖母さんは。
「祖母は非常に厳しい人で、悪いことは許さない。だから、人に迷惑をかけるいたずらをしたら、往復ビンタもされました。ただ、僕が欲しい物には非常に甘かったりするところもあって……ちょっと偏った可愛がられ方をしていたのかなぁと(笑)。例えば、僕がグリコのオマケが大好きだから箱買いしたいと駄々をこねたら、それを許してくれたりとかね。その頃から、僕はどこか完全主義者みたいなところがありました。グリコの箱買いにしても、店に出されて誰かが買ったあとがあるのは嫌。妥協を許さない性格でしたね(笑)」 |

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そんなヤンチャな日野少年の小学生時代。魚釣りやラジコンなど外で遊ぶ機会も多く、友達といたずらをしでかすのも得意(?)な日野さんではあったが、その一方で、物静かな趣味にも興じていた。
「絵を褒められることが多かったですね。小学生のときに、絵のコンテストに11回ほど入選したことがあります。風景画だったり、人物画だったり、絵を描くのは好きだったし、何にせよ、物をつくるのが好きな子供でした。あとは本。楳図かずおさんのホラー漫画やパズルの本を熱心に読んでましたね」
本を買いに、ひとりで書店を散策することも多かったという日野さん。そして日野さんは、書店の一角である1冊の本を目に止める。そこで彼は、コンピュータゲームとの運命的な出会いを果たした。
「コンピュータに目覚めたのも、小学生時代でした。よく本屋に通っていて、高学年の頃、『ウィザードリィ』の本を見つけたんですよ。それがすごく面白そうで、『ウィザードリィ』がプレイできるというコンピュータ、AppleIIが欲しくなって。ただ、AppleIIは、当時の値段で何十万としたので、さすがに買ってはもらえなかった。仕方がないので、小6か中1あたりだったかな、2年間かけてお年玉を貯めて、NECのPC-6001を自分で買いました」 |

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そして、日野さんの時間は本格的なコンピュータライフに費やされ、中学時代には自作のプログラムを組めるほどになった。1980年代、エレクトロニクスが日々を遂げる時代に少年期を過ごした日野さんは、高校時代には今度はアルバイトで資金を貯め、マシンもNECのPC-8801mkIIへとグレードアップ。もちろん最初に目を奪った『ウィザードリィ』を筆頭に、PCゲームの魅力にもハマっていた。
「これは当時のみなさんがそうだと思うんですが、PC-6001時代に遊んでいたソフトといえば、アスキーが出していたオムニバスソフト集の『AXシリーズ』ですよね。1本3000円くらいで、プログラムはカセットテープに収録されていて、今では驚くほどの分厚いマニュアルがついていた。今の時代から見れば、ゲームそのものは地味なんですが、マニュアルにはゲームの世界観がびっしり書かれていて、世界に浸れたんですよね」
日野さんの思い出は、当時のPCユーザーにとっては非常に懐かしいエピソードだろう。同時に、この時代のPCゲームが、現在の日野さんのゲームづくりの原点になっていることも、次の話でよくわかってもらえるはずだ。
「思い出に残っているタイトルは……『ザ・ブラック・オニキス』ですね。T&Eソフトの『スターアーサー伝説』、スクウェア(現スクウェア・エニックス)の『ザ・デストラップ』とか、印象深いタイトルはいろいろあるし、『ウィザードリィ』も何度も遊んだタイトルですが、『ザ・ブラック・オニキス』は本当に面白かった。キャラクターが着せ替えをすると、グラフィックが変わったりするこだわりもすごいと思いました。だから、今、僕がつくるゲームでも、そういった要素は欠かさず入れてますね」
ファミコンが登場したのは、日野さんの高校時代。コンシューマゲームに関しては、どうだったのか?
「ゲームの世界はPCから入ったくちなので、ファミコンのゲームでハマッたタイトルはそれほど多くはないんですよ。『ドラゴンクエストIII』と『SDガンダム ガチャポン戦記』と『ファミコンウォーズ』など……数本ですね。この3本には、とことんハマりました。なかでも、僕の人生を変えたのが『ドラクエIII』。ちょうど就職をするかしないかという時期でもあったし、ゲームにジーンとする感動というものを初めて味わったのが、このタイトルでした。『ウィザードリィ』を筆頭に、それまでRPGもいろいろ遊んでましたけど、システムとしての面白さを感じるタイトルはありましたが、シナリオも音楽も総合して感動できるソフトは、あれにかないませんね」
そう語る日野さんは、『ドラゴンクエスト』の生みの親、堀井雄二さんに認められ、『ドラゴンクエストVIII』の開発に参加。高い評価を得ることになる。『ドラクエIII』に熱狂していた日の日野少年は、とてもそんな輝かしい将来がやって来るとは思わなかったはずだ。運命とは、面白いものである。 |

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話を少し戻そう。PCゲームへの情熱が続いていた中学時代を経て、日野さんは地元の進学校に進んだ。そして彼に少しだけ変化が現われた。
「相変わらずコンピュータ好きではあったんですけど、高校に入っていよいよ青春に目覚めまして(笑)。その頃、ちょうどチェッカーズが流行っていたので、髪型を真似したりね。当時、僕は自転車通学をしてたんですが、家でセットした髪型が乱れないように、風向きを考えながら走ってましたよ。学校に着いたときに、ベストな髪型になるようにってね(笑)。女の子の目を意識したということで言えば、僕の生涯の中であの時代がいちばんだったんじゃないかな。その後はまたさっぱりでしたから(笑)」
学生時代のエピソードでいえば、日野さんにはひとつ今に繋がる面白い話がある。
「勉強に関しては、脳の中身はまったくの理系でしたね。単純に物を覚えるのが大嫌い。歴史の年号とかね。お恥ずかしい話なんですけど、こないだうちの会社が制作した『ジャンヌ・ダルク』があるじゃないですか。僕、あのタイトルの企画が上がってくるまで、ジャンヌ・ダルクはフランス革命に関係ある人だと思い込んでましたからね(笑)。いや、けっこう多いと思いますよ、そう思ってる人。もし、僕のように歴史が苦手という方は、ぜひ『ジャンヌ・ダルク』をプレイして百年戦争の知識を身に付けていただきたい、と(笑)」
「勉強はそこそこに、けっこう遊びほうけてました」という高校時代の日野さん。だが彼にも、卒業が近づくにつれ、そろそろ将来を考えなければならない時期が訪れる。そのときに思いだしたのが、大好きなコンピュータのことだった。
「僕の通っていた高校は進学校でしたから、みんなは無条件に大学受験を目指すわけですよ。でも、僕はどこか冷めていたのか、そういう気分にはなれなくて。そこで、高校を出る頃になって、もう一度自分の好きなことをちゃんとやろうと思ったんですね。自分で創意工夫しながら、問題を解決するのが楽しかった人間ですから、コンピュータ……特にプログラミングは、自分の資質にも合っていた。将来は自分の好きな道に進もうと、大学ではなく、もっとスキルが身に付くコンピュータの専門学校に進んだんです」 |

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好きなコンピュータの知識とプログラミングの腕を養うために通った専門学校。日野さんは、将来を見据えて一生懸命勉学に励んだ。そしていよいよ、就職。そのとき日野さんは?
「うちの学校の卒業生は、ふつうならSEを目指すんですよね。でも、僕はそれも何か違うなぁ、面白くはなさそうだなぁと思って、ゲーム会社に入ろうと考えたんです。といっても、当時のコンピュータ系の学校にゲーム会社が求人をかけることなどもなく。考えた結果、グラフィックエディタとRPGを自作して、福岡にあった『大戦略』シリーズで有名なシステムソフトという会社に売り込みに行ったんです」
当時のシステムソフトは、『ザナドゥ』や『イース』シリーズでおなじみの、東京・立川にある日本ファルコムと並ぶPCゲーム開発会社の大手。だが、そこへの入社はほとんどがコネでまかなわれていたという。だが、ゲリラ的な就職活動をしにきた日野さんのレベルの高い自作ソフトが認められてか、彼は入社試験を受けさせてもらえることとなった。その年の採用はたったの3人。そのひとりが、日野さんだった。だが、
「入社したら、『大戦略』のプログラミングができると思ってたんですが、会社の方針は違っていた。僕をプログラマーではなく、開発チームを管理するプロジェクトマネージャーにしたかったようなんです。当時の僕はプログラマーこそがゲーム制作者だと思っていましたから、プログラムが組めないんじゃこの仕事は違うなぁと、結局4カ月目に会社を辞めてしまいました(苦笑)。思ったことは、意地でもやり通す性格ですからね」
次に日野さんが向ったのは、同じ福岡にあるリバーヒルソフト。「東京の会社に行く気はさらさらなかった」という日野さん。それは彼が「場所なんか関係ない。毎日プログラムを組んでいられれば幸せ」だったから、あえて地元で会社を探した。
「リバーヒルソフトでは、入社して2年目にはメインプログラマーにもなれ、非常にやりがいを感じていましたね。手がけたタイトルは10作ほどあったでしょうか……プログラマーとしての最初の仕事は『D.C.コネクション』のPC-8801への移植。その次に手がけたのが、飯島健男さんがシナリオの『BURAI』でした。その後も、長い下積み時代がありました(笑)。で、ある時から、3Dのゲームをつくりたいと思い出したんです。『ウィザードリィ』の頃から、海外のゲームにはずっと注目していたんですけど、1980年代の後半には、海外のPCゲームにはフライト・シミュレーターがあったりと、もう3Dの時代になっていた。その頃、日本ではまだ2Dが主流。でも、もうすぐ日本も3Dの時代になるだろうと容易に予想ができたので、社長に3Dの研究を始めましょうと直訴したんです」 |

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そして日野さんには小さな部屋と開発機材が与えられ、ひとりコツコツと3Dエンジンの研究に取り組んだ。
「社内での3Dのエキスパートは僕だけ。システム、プログラムに関わることはほぼ僕が全部に関わってました。やりたいことは自分でやるのが好きなので、それはそれでとても楽しかった。だから、3Dがバリバリ動かせる“PS”が登場することになって、僕はすごく嬉しかったですね。今までの地道な研究がやっと実るんだなぁと。僕は、人が未開拓の分野に乗りだしたり、人ができないということをやり遂げるのが好きなんです。“これは俺が何とかしてやる!”って勢いで。まぁ、だいたいのプログラマーは、かなり負けず嫌いの人が多いんですが、なかでも僕はとても貪欲だったと思いますね」
その3Dエンジンの研究が大いにいかされたタイトル。それが、“PS”黎明期にヒットを飛ばした3DのSFアドベンチャー『オーバーブラッド』シリーズだった。日野さんは1作目ではメインプログラマー、2作目ではプランナー、ディレクター兼メインプログラマーという立場で、中心人物としてチームを牽引した。
「『オーバーブラッド2』の開発チームは30人以上いましたかね。PCゲームが7、8人のプロジェクトでしたから、社内最大規模ですよ。今、35人のチームというと、コンシューマでは小規模になってしまいますけどね。当時としてはとても斬新なタイトルでしたが、今思うと、色々と気になるところはあるなぁと(笑)。いろんな意味で、歴史を感じる。懐かしいですね」
リバーヒルソフト在籍時を振り返って、日野さんは「プログラマー時代は、毎日がとにかく楽しかったですね」と目を細める。その毎日は、遠足を明日に控えた子供のようだったともいう。
「夜布団に入っても、明日の仕事のことを考えると、ワクワクして眠れないんですよ(笑)。自宅のPCでできる仕事ではないので、会社のシステムは会社でしかいじれない。だから、今日途中で終わったプログラムの続きを早く組みたくて、会社に早く行きたくてしょうがないわけです。24、5歳の頃には、自分自身のスキルも、やりたいことがスイスイできるくらいのレベルになってましたから」 |

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そんな日野さんに大きな転機が訪れる。1990年代も後半に差しかかり、9年間在籍したリバーヒルソフトを離れ、幾人かの同じ思いを持つ同僚と共に、独立しようと思い立ったのだ。「独立を考えたいちばんの理由は、新しいことをやりたくなったから」と日野さんは当時の心境を語る。そして彼が起こした行動は、『オーバーブラッド』シリーズで親交の厚かったSCEに足を運ぶことだった。
「その時、相談に乗ってくれたのが、佐藤明(現SCE代表取締役 副会長)さんでした。その席で、今“PS2”という新ハードが計画されているという話を初めて聞いたんです。発売の1年半前くらいですか。驚きましたね。そして佐藤さんは“PS2の第1弾となるタイトルをつくってみないか?”と言ってくれたんです」
思わぬニュースに驚いた日野さんだった。
「僕がSCEに行ったのは、当時SCEが推進していた100%出資によるサテライトカンパニーにしてくれないかな、という提案をしたかったからなんですよ。独立といってもゼロからのスタートは厳しいですからね」
しかしそんな日野さんに?
「佐藤さんは、サテライトカンパニーではなく、SCEからの支援はちゃんとするから、自分たちで会社を起こしなさいとアドバイスしてくれたんです。どういう思惑があって、そう助言してくれたのかは未だにわからないんですが(笑)、あのひと言で、自分たちで会社をやろうという気持ちが固まったんです。今思えば、僕らが会社の枠に縛られず、自由な発想でゲーム制作ができるようにという親心だったのかも知れないですね」 |

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そして1998年10月、日野さんはレベルファイブを立ち上げる。本社はもちろん、長年親しんだ福岡に置いた。第1弾タイトルとなったのは、佐藤明さんから提案のあったSCEから発売された“PS2”タイトル『ダーククラウド』。その後も“PS”ファミリーで『ダーククロニクル』『ローグ ギャラクシー』『ジャンヌ・ダルク』など斬新なタイトルをコンスタントに発表し続けている。
「レベルファイブのポリシーは、一生懸命ゲームをつくること。期待される以上のことをしようとする精神を、みんなが持っているんですよ。本社を福岡に置いたのも、東京よりも落ち着いて仕事に向える環境があるからですね。家賃も安いし(笑)。不便と思ったことはないですね。個室で物をつくらせてもらっている感じがします」
福岡でゲーム開発を続けることで、ほかの地方にはない新たな試みにもチャンレジしているレベルファイブ。先日発売となった『ジャンヌ・ダルク』も、その試みから生まれたタイトルのひとつだ。
「『ジャンヌ・ダルク』の開発に掛ける意気込みのひとつに、“九州をゲームのハリウッドにしたい”という気持ちがありました。実は今、僕が会長となって、九州のゲームメーカー9社が集まって「GFF」(Game-Factory's-Friedship または Gate-For-Future)というグループをつくっているんです。そこで新しい加盟会社を増やそうというときに、僕のシステムソフト時代の高い技術力を持った憧れの先輩である『大戦略』のプログラマーの方々と、協力体制をつくれることになったんです」
そして、気になるのはレベルファイブの今後の展開。現在はPLAYSTATION®3で日野さんがプロデュースする『白騎士物語(仮)』も開発中だが?
「いろいろとタイトルを発表していますが、ひとつひとつ丁寧に仕上げていきたい。なにより、これからも新しいものに挑戦していく姿勢は変えずにいきたいですね。今、これが流行っているからという安易な発想からではなく、そのタイトルをつくることの意義があるプランを、みなさんに広く提示できればと思います。そのひとつとして、PLAYSTATION®3のポテンシャルを誰よりも上手く使いこなしたタイトルを『白騎士物語(仮)』は目指してますし、きっと実現できると思っています。『白騎士物語(仮)』の開発も着々と進行していますので、次に新しい画面をお披露目できる日も近いと思いますよ」
さらにクリエイターである日野さん個人としては?
「昔は、ゲームをつくるときにディレクター的な面白さを追求していたんですが、レベルファイブを始めてからは、プロデューサー的な面白さを感じるようになりましたね。以前の僕は、例えばモニターに向って画面レイアウトをつくっているときのように、現場の作業からゲームをつくっている実感を感じてましたが、現場の実作業ではないところにもその実感があるんだと。ただ、やっぱり完全に現場を離れてプロデュースだけに徹することは、僕の性格からして無理なんじゃないかと。僕はプログラマーでしたから、うちのプログラマーに対しても厳しくなってしまう。“ここは、もっと何とかできるんじゃないの?”って。現場には煙たがられるかも知れないですけどね(苦笑)」 |
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◇よろしければ今回のインタビューのご感想をお聞かせください。
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