6年間のシンガポール赴任を終え、次に山本家が向かったのはアメリカ・ニューヨーク。山本さんは、マンハッタンから北に電車で40分ほどいったウェストチェスターという地域で8年間暮らすことになった。その街にはシンガポール同様に、まだ日本人がほとんどおらず、山本さんは白人の子供たちが通う小学校に通い出し、中学卒業までをそこで過ごした。
「ニューヨークの学校では、最初に言葉でつまづきましたね。シンガポールはもともとイギリス領ですし、貿易の拠点なので、生活の基本は英語なんですが、マレー、中国、インドネシア、遠くはインドからと、さまざまな人種が集まった街でした。僕自身も幼稚園で英語を教わったのは中国人から。だから、シンガポールの英語はさまざまな言語がミクスチャーされてて、“シングリッシュ(シンガポール・イングリッシュ)”と呼ばれるほど有名なんです。当然、ニューヨークに行ってすぐは、そのシングリッシュが通じなくて、すごく歯がゆい思いをしてました」
言葉の壁にさえぎられ、メディアの知識でしか日本を知らないアメリカ人に囲まれた生活は、山本さんにとっては楽しいだけの毎日ではなかったようだ。
「当時のウェストチェスターはもともと白人の多いエリアで、通った学校も黒人がふたりくらい、アジア人もふたりくらいしかいないローカルな小学校。とにかくアジア人が珍しいわけです。言葉のほうは、さすがにネイティブな発音が身についていったので、なんとかなっていったんですが、日本人としての自覚ができた……というか、自覚させられるようになったのは、アメリカ人の子供にいじめられるようになってから。子供同士のことですから、やはり外見の問題は大きかったんじゃないでしょうかね」
当時のアメリカ人にとって、日本はまだまだ神秘の国。周囲の子供たちの日本に対する知識も、サムライの時代からさほど進歩していなかった。
「みんな、まず日本がどんな国か知らないんですよね。僕に向かって“あの変な髪型(ちょんまげ)はしてないのか”“刀を隠してるんじゃないか”と言う。白人の子供にとって日本といえば、サムライとニンジャ(笑)。とにかく珍しがっていろいろ聞かれるんです。そのたびに、“今の日本は、君たちが想像しているような国じゃないんだ”っていつも説明してあげなきゃいけない。だから、自分が日本人であるという意識は、知らず知らず強くなっていきましたよ。僕こそ、日本で暮らした記憶なんてひとつもないんですけどね(笑)」
さらに、周囲のアメリカの子供たちとの会話は、ときに戦争問題にも波及した。山本さんは、幼いながらも、自分の経験したことのない話題で、日本人の代表としての議論も余儀なくされたという。
「大げさに言ってしまえば、僕はアメリカで日本を代表して闘わなければならない立場にいたんですよね。日本人だというだけでバカにされるのは悔しいから、僕も必死で歯向かいましたよ。だから、逆に日本のことをよく知らなければいけないという意識にはなりますよね。
僕自身も、山本という苗字だというだけで、第二次世界大戦の山本五十六の話をされたりするわけですよ。“リメンバー・パールハーバー”という言葉もさんざん言われたし、大戦で友達のおじいちゃんが死んだとかいう話もされた。でも、こっちはこっちで広島と長崎の話がありますから、どうしても戦争についての議論になりますよね。子供のくせに重い話をしてたもんだなぁと。たぶん僕だけじゃなく、当時アメリカに住んでた日本人は、誰もがそういう経験をしてるんじゃないかと思いますよ」
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