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僕自身がそうだったからこそ日本人が世界で活躍するために言葉の壁を破るサポートをしていきたい
 山本吉輝
個性的な作品をつくり出す注目のゲームクリエイターに“あなたができるまで”を訊くロングインタビュー企画「THE EARLY DAYS」、第6弾のゲストは、PSP®ソフトに新機軸を打ち出した『TALKMAN』プロデューサー・山本吉輝さん。幼い時代を海外で過ごし、AV機器の開発や音楽プロデュース業を経たという異色の経歴から生まれた『TALKMAN』シリーズには、山本さんの少年時代の体験が色濃く反映されている。
Profile
山本吉輝(やまもと よしてる)
1970年6月29日生まれ。千葉県出身。ソニー・コンピュータエンタテインメント JAPANスタジオ 制作1部 プロデューサー。1歳〜中学生時代までをシンガポール、ニューヨークで過ごし、慶應義塾大学経済学部を経て、93年にソニー入社。退社後、独立。日本、アメリカでの音楽イベント企画・運営会社経営を経て、02年にソニー・コンピュータエンタテインメント入社。海外ライセンス事業を手がけ、その後、制作部へ。現在、『TALKMAN』シリーズのプロデューサーとして活躍中。2007年1月18日にはシリーズ最新作『TALKMAN式 しゃべリンガル英会話』が発売となる。
Q&A
Q 音楽でも映画でも食べ物でも、好きなものを教えてください。
A ROCK、揚げたてのコロッケ、The Shawshank Redemption、白玉クリームあんみつ、かしこい女性
Q 尊敬する人は誰ですか?また、その理由も教えてください。
A 父親。男らしい男だから。
Q 今、一番楽しみにしていることは何ですか?
A 週末
Q 今、一番欲しいものは何ですか?
A Gibson Les Paul
Q 最近感動したことは何ですか?
A パチンコで30箱出たこと。
Q 時間が出来たらやりたいことは何ですか?
A 作曲
Q 座右の銘または好きな言葉はありますか?
A 得るものがあれば失うものがある。失うものがあれば得るものがある。
Q もしゲームクリエイターになっていなかったら、どんな職業に就いていたと思いますか?
A 海外営業マン
Q 生まれ変わってもゲームクリエイターになりたいですか?
A 何かしらのクリエーターにはなりたい。
Q 今まで手がけたゲームの中でいちばん印象に残ったタイトルは何ですか? また、その理由も教えてください。
A TALKMAN。初めて作ったゲームソフトだから。
山本吉輝氏の軌跡
小学校(低学年)時代
シンガポールにて地元の子供達と遊ぶ毎日
小学校(高学年)〜中学時代
アメリカに移住
言葉の壁や偏見などを経験、日本人であることを自覚するようになる
高校時代
日本でバンドに目覚める
大学時代
バンド活動
バンドプロデュース活動
1993年
ソニー入社
1997年
ソニー退職、起業
1999年
アメリカで音楽イベントやロックバンドのプロデュース活動
2002年
SCE入社
2005年
『TALKMAN』発売
2006年
『TALKMAN EURO 〜ヨーロッパ言語版〜』発売
2007年
『TALKMAN式 しゃべリンガル英会話』発売
関連作品
ジャケット
TALKMAN式 しゃべリンガル英会話
(マイクロホン同梱版)
ジャケット
TALKMAN式 しゃべリンガル英会話
(ソフト単体版)
ジャケット
TALKMAN
ジャケット
TALKMAN (ソフト単体版)
ジャケット
TALKMAN EURO 〜トークマン ヨーロッパ言語版〜(マイクロホン同梱版)
ジャケット
TALKMAN EURO 〜トークマン ヨーロッパ言語版〜(ソフト単体版)
公式サイト
『TALKMAN』公式サイト

幼少期を過ごしたシンガポール時代

photo マイクを使って外国語会話の支援ツールをインタラクティブに楽しむ。PSP®ならではのハイクオリティなスペックをいかし、人気を博している『TALKMAN』シリーズは、プロデューサーである山本吉輝さんのゲームクリエイターになるまでの個性的な半生と経験が発揮されたタイトルだ。

 山本さんが生まれたのは千葉県。だが、山本さんはわずか1歳のとき、メーカー勤務をしている父親の海外赴任により、東南アジア最大級の都市国家・シンガポール共和国に移住し、6年間を過ごす。1970年代前半のシンガポールは、日本企業が東南アジアにおける製造拠点を求めて、こぞって進出を果たそうという時代。山本さんの暮らしていた界隈には、まだアジアの原風景があった。

「家のまわりには、アジアらしい農村地帯が広がってましたよ。道路も舗装されてなかったし、頭に籠をのせた女性が裸足で歩いていたり、ニワトリが放し飼いになってたり。お店といっても、住宅地には昭和時代の駄菓子屋みたいな小さなところしかなくて。今のシンガポールのように、ビルが林立するような風景ではまったくなかった。ちょうど、僕が住み出した頃が、シンガポールの高度成長期のスタートでした」

 そんなシンガポールにはまだ日本人も少なく、遊び相手は近所の中国人の子供たち。もちろん日本人学校は1校もつくられておらず、短い期間ではあったが、山本さんは地元の子供が通う小学校に通った。

「当時のシンガポールは、今とは全然違ってましたね。日本の企業がこれからシンガポールに進出しようという頃でしたから、近所に日本人もほとんどいないし、日本人学校もまだなかった。地元の子と一緒に、ローカルの小学校に通ってました。だから、シンガポールでは自分が外国人……日本人だという自覚は全くなかったですね。赤道直下の街なので、現地の子供と同じくらい肌も真っ黒だったし、まわりもアジア人種ばかりでしたから」

日本人であることを自覚させられたニューヨーク時代

photo 6年間のシンガポール赴任を終え、次に山本家が向かったのはアメリカ・ニューヨーク。山本さんは、マンハッタンから北に電車で40分ほどいったウェストチェスターという地域で8年間暮らすことになった。その街にはシンガポール同様に、まだ日本人がほとんどおらず、山本さんは白人の子供たちが通う小学校に通い出し、中学卒業までをそこで過ごした。

「ニューヨークの学校では、最初に言葉でつまづきましたね。シンガポールはもともとイギリス領ですし、貿易の拠点なので、生活の基本は英語なんですが、マレー、中国、インドネシア、遠くはインドからと、さまざまな人種が集まった街でした。僕自身も幼稚園で英語を教わったのは中国人から。だから、シンガポールの英語はさまざまな言語がミクスチャーされてて、“シングリッシュ(シンガポール・イングリッシュ)”と呼ばれるほど有名なんです。当然、ニューヨークに行ってすぐは、そのシングリッシュが通じなくて、すごく歯がゆい思いをしてました」

 言葉の壁にさえぎられ、メディアの知識でしか日本を知らないアメリカ人に囲まれた生活は、山本さんにとっては楽しいだけの毎日ではなかったようだ。

「当時のウェストチェスターはもともと白人の多いエリアで、通った学校も黒人がふたりくらい、アジア人もふたりくらいしかいないローカルな小学校。とにかくアジア人が珍しいわけです。言葉のほうは、さすがにネイティブな発音が身についていったので、なんとかなっていったんですが、日本人としての自覚ができた……というか、自覚させられるようになったのは、アメリカ人の子供にいじめられるようになってから。子供同士のことですから、やはり外見の問題は大きかったんじゃないでしょうかね」

 当時のアメリカ人にとって、日本はまだまだ神秘の国。周囲の子供たちの日本に対する知識も、サムライの時代からさほど進歩していなかった。

「みんな、まず日本がどんな国か知らないんですよね。僕に向かって“あの変な髪型(ちょんまげ)はしてないのか”“刀を隠してるんじゃないか”と言う。白人の子供にとって日本といえば、サムライとニンジャ(笑)。とにかく珍しがっていろいろ聞かれるんです。そのたびに、“今の日本は、君たちが想像しているような国じゃないんだ”っていつも説明してあげなきゃいけない。だから、自分が日本人であるという意識は、知らず知らず強くなっていきましたよ。僕こそ、日本で暮らした記憶なんてひとつもないんですけどね(笑)」

 さらに、周囲のアメリカの子供たちとの会話は、ときに戦争問題にも波及した。山本さんは、幼いながらも、自分の経験したことのない話題で、日本人の代表としての議論も余儀なくされたという。

「大げさに言ってしまえば、僕はアメリカで日本を代表して闘わなければならない立場にいたんですよね。日本人だというだけでバカにされるのは悔しいから、僕も必死で歯向かいましたよ。だから、逆に日本のことをよく知らなければいけないという意識にはなりますよね。 僕自身も、山本という苗字だというだけで、第二次世界大戦の山本五十六の話をされたりするわけですよ。“リメンバー・パールハーバー”という言葉もさんざん言われたし、大戦で友達のおじいちゃんが死んだとかいう話もされた。でも、こっちはこっちで広島と長崎の話がありますから、どうしても戦争についての議論になりますよね。子供のくせに重い話をしてたもんだなぁと。たぶん僕だけじゃなく、当時アメリカに住んでた日本人は、誰もがそういう経験をしてるんじゃないかと思いますよ」

ニューヨークでの楽しい思い出

photo そんなニューヨーク時代の山本さんにも、楽しい思い出は数多く残っている。そのなかには、日本人ならではのエピソードもある。

「基本的に日本人だから得した、ということは少ないんですが(苦笑)、唯一、僕が輝いた瞬間は九九の計算のときですね。日本ならではの語呂合わせで九九を覚えていた僕は誰よりも早く掛け算が答えられた。算数の授業で掛け算の計算をしてるときだけは、女の子たちが僕を見る目が違ってました。まぁ、小学校生活で女の子に尊敬されたのは、そのときだけでしたけどね(笑)」

 そして、ある日のゲームセンターでは、こんな危ないエピソードも。

「小学校低学年の頃でしたかね、ある日兄弟でゲームセンターに行って、『ギャラガ』をプレイしてたんですが、後ろにすっごく悪そうな中学生ふたりが並んだんですよ。でも、なかなか僕がミスをしないものだから、そのうち“早く止めろ、チャイニーズ”って言いながら、僕をどつき始めてね。もう、暴動の一歩手前になっちゃって。
 そこでさすがの僕もキレましてね。振り向きざまに、奇声を発しながら当時流行ってた『The Karate Kid』(邦題:ベスト・キッド)の真似みたいなポーズをしたんですよ。そうしたら、ふたりがビビっちゃって(苦笑)。あれは痛快でしたね。やっぱりね、空手っていうのは東洋の神秘なんですよ。学校でも、日本人のルックスで空手の適当なポーズをとって見せると、手を出してきませんからね(笑)」

 アメリカならではの学校行事も楽しい思い出だった。サマーキャンプ、ダンスパーティ。日本の学校ではけっして体験できないイベントに、山本さんは心躍らせた。そうして少年時代を地元のローカルな小学校で過ごしていた山本さんだったが、彼が6年生のとき、ついに近所に日本人学校が創立され、山本さんは中学卒業までの日々を日本人学校で過ごすことになった。

「そうこうするうちに、ちょうど、僕が中学を卒業するくらいのタイミングで、海外での父の仕事も一段落することになり、日本の高校に進学しようということになったんです。ただ、かなり日本語のレベルが低かったため、強制的に日本人学校に行かされ、日本で待っている受験戦争に備えるため、塾にも通いました。(あるんですよ、アメリカにも進学塾が。笑)」

ついに帰国〜戸惑いの高校時代

photo その甲斐あって日本の高校に合格したものの、父親の仕事の都合により、彼の家族は一家揃って帰国することができなかった。そこで、山本さんはひと足先に日本へ。寮で、約1年間ひとり暮らしをすることになる。だがそこで、ひとつ大きな問題が起きた。

「この1年間がまた大変でね。以前、小学校時代に一時帰国をしたことがあって、半年ほど祖母の田舎の小学校に通ったことがあったんです。でもそこでは、海外にいたことをネタにいじめに近い仕打ちを受けたんですよね。言葉がおかしい、アメリカに帰れと(苦笑)。それがトラウマになっていて、高校生活の最初は海外から来たという事実を隠してたんです。ただ、さすがに14年間のブランクがあると、日本のわからないことがたくさんありすぎて、余計なことで苦労しました」

 それは例えば?

「マンガ雑誌の名前とかね。学校帰りに、友達に“ヤンジャン買いに行こう”と誘われたのはいいんですけど、“ヤンジャン”が何のことかさっぱりわからない。つい“ヤンジャン、どこで食うの?”って聞いちゃったりね(笑)。そんなことが何度か続くと、同級生からちょっと不気味に思われるようになっちゃいまして。
 さすがにこのままじゃいけないと、1年半くらい経ったときに担任の先生に相談したら、“なんで今まで、自分が帰国子女だって言わなかったんだ”と笑われましたよ(笑)。いい先生だったので、みんなにキチンと説明してくれて、やっとスムーズに学校に溶け込めるようになりました」

 さて、そうした波乱で幕開けた高校時代。山本さんは、前述したニューヨークのゲームセンターで不良に勝った思い出もあり、日本人らしいことをしようと、まず空手部に入部。続いて、帰国子女であったことを告白したことから、高校2年生のときに、友人からある誘いを受ける。それは、彼の人生に大きな影響を与える出来事となった。

「高校2年になると、僕が帰国子女だということも公になり、あるとき同じクラスの男が、僕に“おまえ、歌は歌えるか?”と突然聞いてきたんですよ。“うちのバンドのボーカルが事故に合ったから、来週のライブで歌ってくれないか?”と言うんです。そのバンドは洋楽をカバーしていたので、とにかく英語の上手いヤツが欲しかったらしいんですよね。
 そして、いきなりスタジオに連れていかれて、ポイズンというハードロックバンドの〈トーク・ダーティー・トゥ・ミー〉という曲の歌詞を渡されたんです。それが偶然にも僕の大好きな曲で、いざ演奏が始まったら楽しくてしょうがない(笑)。これは運命だと思いましてね。空手部もやりつつ、高校〜大学〜社会人2年目くらいまで、ずっとバンド活動を続けてました」

バンドに明け暮れ、人生の転機を迎えた大学時代

photo そして、高校時代にバンドと運命的な出会いを果たした山本さんは、大学に進学しても、バンド活動を熱心に続けた。

「大学からは僕もオリジナルの曲を書くようになり、オーディションを受けたりするようにもなって、プロを目指してバンド活動も本格的になっていったんです。でも、バンドはすごくタイトで音も曲もよかったんですけど、ボーカル……っていうのは僕のことなんですけど(笑)、これが問題でね。ひたすら騒ぐんですよ。キレイに歌おうという気持ちが全くないんですね(苦笑)。
 その頃からですね、プロデューサー的な発想でバンド活動をしていったのは。ライブにDJを呼んだり、ライティングの注文を出したり。自分でも、ボーカリストより、裏方の仕事のほうが向いてるんじゃないかなぁと思い出したんです」

 しかし、山本さんたちバンドメンバーが大学4年という節目を迎えたときに、彼らは人生の大きな選択を迫られる。なんと、イギリスのレコード会社の人間と名乗る男から、ロンドンでデビューしないかというおいしい話が持ちかけられたのだ。だが?

「その人が、なんだかすごく胡散臭い。僕は、バンドメンバーに“この話はどうも怪しいから断ったほうがいい”って一生懸命言ったんですけど、みんなはこのチャンスを逃すわけにいかないと、すごく盛り上がってるわけですよ。話が来た時期も時期で、ちょうど大学4年の就職活動の頃。結局は、僕以外のメンバーが全員、ロンドンに行っちゃいましてね。僕の代わりのボーカリストは向こうで見つけるからいいや、って感じで。
 でも、後から話を聞いたら、やっぱりCDデビューどころではなくて、おかしなアルバイトをさせられるわ、働いたぶんのマージンは取られるわで、みんなボロボロになって帰国したみたいです。あのとき一緒に行ってたら、僕の人生は全く変わっていたんでしょうね」

就職〜独立・起業〜ふたたびアメリカへ

photo 熱い青春時代を共に過ごしたバンドメンバーと別れた山本さんは、AV機器が好きだった趣味をいかせる仕事に就こうと、93年4月、ソニーに就職。最初に配属されたのは、ネイティブな英語をいかせる海外営業の部署で2年間、営業マンとしてのキャリアを積んだ。

「といっても、僕がやってたのは、日本にいて、世界中からの注文を受けて在庫管理をして工場に発注するという……あまり面白みのない仕事(苦笑)。ただ、その部署はある程度キャリアを積むと海外に赴任するのがパターンでしたから、僕はずっと新規市場開拓がねらえるベトナムに行きたいと思っていました。
 そんなときに、人事から僕に会いたがってる人がいると聞いたんです。僕としては“これでいよいよベトナム行きだ”と喜んで会いに行ったら、社内ベンチャーとして立ち上げるという、海外通販のプロジェクトに参加しないかという話だったんですよ(笑)」

 しかし、残念ながらその新規プロジェクトも2年で解散。次に山本さんが異動した先は、ソニーの中核ともいえる商品企画の部署。そこで、短波ラジオ〈ICF-SW07〉の開発を行ない、その仕事を最後に山本さんは5年間在籍したソニーを退社する。その理由は、やはり根強く残っていた音楽への愛情からだったと彼は言う。

「やはり、音楽で人を楽しませる仕事がしたかったんです。本当は、ロックバンドのプロデュースだけをしたかったんですが、人にバンドのよさを伝える難しさは、僕もバンドをやっていた人間なので、よくわかっていました。
その点、クラブは違うんですよね。すごい数のお客さんが集まっていて、レコードをかけるだけで盛り上がっている。ロック畑の僕としては、それがとても不思議でね。そこで、その謎解きをしようと、好きでもないクラブ通いをしながら、自分でもハードハウスやトランスのイベントを企画・運営するようになっていったんです。
 クラブイベントが軌道にのったおかげで、お金も貯まっていきました。そして2年ほど経って、せっかく英語が話せるんだから日本にいるのはもったいないと、クラブで儲けたお金でアメリカに行って、好きなロックバンドのプロデュースをしようじゃないかと思い立ったんです」

 そしてふたたびアメリカへ。選んだ場所は馴染みの深いニューヨークではなく、ロサンゼルスだった。山本さんは、なんのコネもないロサンゼルスで、地道にバンド探しとコネクションを広げることに奔走。そこでも日本人、アジア人としてのプライドが、山本さんを突き動かしていた。

「ロスでも、ニューヨークの小学生時代と同じことを感じましたね。アジアがきちんと評価されていないんです。アジアのアーティストも頑張ってアメリカで成功しようとはしてるし、彼らが決して才能がないとも思わない。だから、アジアのタレントを、向こうに受け入れやすいアレンジをしてプロモートできないかと思ったんですね。
 でも、世の中そう甘くはなかったです。お金が底をついてきたら、トランスのイベントでちょっと稼いで、そのお金をロックにつぎ込んで(笑)。その繰り返し。そして結局、ある大きな賭けに失敗して、3年後に日本に帰ることになりました」

2度目の帰国〜就職活動ふたたび〜SCE入社

photo それまでの蓄えを失った山本さんは、帰国後、持ち前のポジティブ思考を発揮して、さっそく2度目の就職活動にいそしむことになる。

「お金も全くなかったので、帰国してすぐに仕事を探し始めたんですが、僕が興味ある会社はどこも人材募集をしてないタイミングでした。仕方ないので、とにかく目についたエンタテインメント系の会社に、勝手に職歴書をガンガン送りつけたんですよ(笑)。そうしたら、ほんの数社だけですけど返事がきて、その中のひとつにSCEがあったんです。
 でも正直に言うと、ゲームの仕事はちょっと抵抗あったんですよね(苦笑)。僕にとって、ゲームはほとんど馴染みのない世界だし、やっぱりどこかオタクな、子供っぽいイメージがあった。そこで、とある音楽業界の先輩に相談してみたら、エンタテインメントのコンテンツとして、ゲームはものすごい可能性を秘めていると先輩が力説するわけですよ。その熱い説得にも一理あると思い、SCEへの入社を決めたんです」

 山本さんがSCEに入社したのは02年のこと。配属部署は、やはり英語力を買われての海外ライセンシング部だった。そこで2年ほど、海外向けの『ワイルドアームズ』や『サルゲッチュ』シリーズ、『ダーククロニクル』などのローカライズに関わった山本さんの頭には、ある考えがよぎっていった。それが、発売を控えていたPSP®だからこそ実現できる『TALKMAN』の企画だった。

「僕自身がもともと、それほどゲームが好きではなかったものですから(注、子供の頃は大好きでした!)、ゲームファンじゃない人がもっと興味を持てるタイトルがあってもいいだろうと。自分の代わりに何かをしてくれたり、使っていて便利なツールがあると、人間はうれしいじゃないですか。僕のなかでは、うれしいことがエンタテインメント。それが純然たるゲームである必然性はないですよね。そういうゲームソフトというのはありだろうか? そこが『TALKMAN』の始まりだったんです」

 そして、山本さんは通常の仕事の合間をぬって『TALKMAN』の企画書を書き上げ、上司に提案した。

「あのときは、もしも“こんなものゲームじゃない”と企画を拒否されたらSCEを辞めようかな、というくらいの意気込みでしたね(笑)。でも上司が面白がってくれまして、企画にOKが出て、僕は開発にまわることになったんです。
『TALKMAN』をつくった意図には、僕と同じようなゲーム以外のジャンルのクリエイターに、ゲーム開発の可能性を訴えるつもりもありました。今、“ノンゲーム”が受ける時代がやってきて、それは僕としては非常にうれしい。もちろん、ゲームの基本であるRPGやアクションゲームにも頑張って欲しいですが、そこに新しいテイスト、ひねったソフトが加われば、ゲーム業界というものがさらに健全に発展するのかなと」

『TALKMAN』への想いを込めた最新作と今後の展開

photo ゲーム分野とは異なる発想から制作された『TALKMAN』は、PSP®に新しい可能性を付加する新機軸のソフトとして大好評を博した。その後も、ヨーロッパ各国の言語に対応した『TALKMAN EURO 〜トークマン ヨーロッパ言語版〜』に続き、1月18日には、さらにゲーム性を高めた『TALKMAN式 しゃべリンガル英会話』が登場。一般層を巻き込むヒットタイトルとしてシリーズを重ねている。そのなかで山本さんが常に大切にしているのは、ユーザーの声。特に最新作となる『しゃべリンガル英会話』は、ユーザーの要望に大きく応える作品となっている。

「『TALKMAN 式しゃべリンガル英会話』は、まさに『TALKMAN』のユーザーの方の声をベースにつくったソフトなんです。今までのタイトルで、ユーザーは意外なほどに、ゲームモードを楽しんでいたんですよね。
 でも、ただゲームとして遊んで終わりの作品ではない。僕は、大学時代に大手の英会話学校の正規講師のアルバイトをしていたことがあるんですが、そこでのノウハウもこのソフトに盛り込んであります。英会話を勉強しようというときに、たくさんのフレーズを覚えようとしてもダメ。僕が教えていた生徒さんも、1000会話くらい勉強してるなかで身につくのは、せいぜい50個くらいでした。だったら、絶対必要な50個の会話を毎日繰り返し、声に出しながら徹底して覚えたほうが効率的でしょう?
 だから『しゃべリンガル英会話』は、日常会話、旅行会話で必要とされるフレーズをきちんと抽出したうえで、それを繰り返し発音しながら覚える仕組みになっています。見た目はライトかも知れないけど、内容はかなり本格派に仕上げたつもりです」

 だが、なぜそこまで外国語会話ツールにこだわるのだろう? その質問に山本さんは、自分の半生を振り返りながら、こう答えてくれた。

「これは何よりも僕が経験してきたことですが、アジア人が世界で活躍できない最大の原因は、やはり言語なんです。アイデアで勝負する前に、言語の壁でシャットアウトされるのはもったいないじゃないですか。
 それに、僕は日本に来た外国人に日本人が英語のことで謝っている光景を見ると、とても腹立たしい気持ちになるんです。外国人に何かを聞かれて“英語がしゃべれなくてすみません”と謝るのは全くおかしな話ですよ、日本にいるんですから。でも、よく目にする。しゃべれないというのはしょうがないですが、そこで“ソーリー”と謝る必要はない。もっと日本人としてのプライドを持ってほしいし、少しでも英語がしゃべれれば、外国人に臆することもなくなるはずなんです。僕はそれがすごく悔しいんですよ。だから僕は『TALKMAN』で、日本人がぶつかる言語の壁を破るためのサポートをしていきたいんです」

 そんな山本さんにとって、『TALKMAN』はライフワークともいえる作品だ。もちろん今後も、より優れた外国人とのコミュニケーションを楽しくサポートするツールを目指して、このシリーズを続けていきたいと彼は語る。

「今までの『TALKMAN』シリーズは、難易度を調整せず自然な英会話をベースにしていたので、英語の基本を知っている人、ある程度大人向けのソフトでしたので、ゆくゆくは子供や外国語初心者に向けたタイトルも用意できたらいいなと思っています。そして、自らしゃべれるようになる『しゃべリンガル英会話』シリーズと同時に、従来の、代わりにしゃべってくれる『TALKMAN』の流れを汲んだ海外旅行サポートツールも、さらにブラッシュアップさせたい。『TALKMAN』に限らず、新しいエンタテインメントをこれからもドンドン世に送り出したいと思います」

◇よろしければ今回のインタビューのご感想をお聞かせください。
Back Number
2006年12月 日野晃博氏
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