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思い切って環境を変えることで自分自身も変えることができる。 平塚浩志
個性的な作品をつくり出す注目のゲームクリエイターに“あなたができるまで”を訊くロングインタビュー企画「THE EARLY DAYS」。第7弾のゲストは、メーカー広報からプロデューサーへと異色の転身を図った『喧嘩番長』シリーズプロデューサーの平塚浩志さん。人と話すのが苦手だった彼がいかにしてチームリーダーとしての資質を身につけ、広報マンとして得た知識と勘を今にどう役立てているか?平塚さんの半生に起こった出来事とは?
取材・文/阿部美香(ライター)
Profile
平塚浩志(ひらつか ひろし)
1972年5月15日、埼玉県・川口市生まれ。埼玉県立蕨高等学校、龍谷大学経営学部を卒業後、SP代理店勤務を経てアートディンク入社。メーカー広報として勤務する。その後、チュンソフト勤務を経て、2003年、スパイクに入社。同社の広報として活躍後、『喧嘩番長』開発プロデューサーへと転身。現在、スパイク プロデュース部 プロデュースグループに籍を置き、『喧嘩番長』シリーズ、モバイル版『忍道』シリーズなどのプロデュースを手がけている。
Q&A
Q 音楽でも映画でも食べ物でも、好きなものを教えてください。
A 映画:
ロック、ストック&トゥー・スモーキング・バレルズ
小説:
クライマーズ ハイ
漫画:
ぼくの地球を守って
アニメ:
銀河漂流バイファム
食べ物:
ふがし
Q 尊敬する人は誰ですか?また、その理由も教えてください。
A

李鳳宇(リ・ボンウ/映画プロデューサー)
制作、プロデュースという仕事をしていく上で、(勝手に)目標とさせていただいてます。

Q 今、一番楽しみにしていることは何ですか?
A 我が子(喧嘩番長2)が、ついに世に出ることです。
Q 今、一番欲しいものは何ですか?
A フクロモモンガ
Q 最近感動したことは何ですか?
A 近所のお好み焼き屋さんに、がんばれと言ってもらったこと。
Q 時間が出来たらやりたいことは何ですか?
A サーフィン(やったことはないんですけどね……)
Q 座右の銘または好きな言葉はありますか?
A 一期一会
Q もしゲームクリエイターになっていなかったら、どんな職業に就いていたと思いますか?
A 営業マン
Q 生まれ変わってもゲームクリエイターになりたいですか?
A モノを作る仕事(集団)に、なんらかの形で参加したいと思います。
Q 今まで手がけたゲームの中でいちばん印象に残ったタイトルは何ですか? また、その理由も教えてください。
A 喧嘩番長
関わった人全員がとにかく前向きで、モノをつくるうえで、最高の環境だったと感謝しています。
平塚浩志氏の軌跡
小学校時代
“安全な自転車乗り大会”に向けて猛練習の日々
中学校時代
バレーボールに目覚める
高校時代
修羅場を経て得た彼女に振られる
大学時代
関西の大学に進学
バイト仲間とバレーのサークルを作る
自宅をエンタテインメントスペースに
1995年
SP代理店入社
1996年
アートディンク入社
2001年
チュンソフト入社
2003年
スパイク入社
2005年
『喧嘩番長』発売
2007年
『喧嘩番長2 〜フルスロットル〜』発売予定
関連作品
ジャケット
喧嘩番長2
〜FULLTHROTTLE〜
(フルスロットル)
【ゲーム特集】
喧嘩番長2
公式サイト
公式サイトはこちら!
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生真面目な優等生だった小学校時代

photo 「ソフトのことを話すなら、いくらでも大丈夫なんですけど、自分のことを喋るとなると、ものすごく緊張しますね。就職の面接を受けに来たみたいで(笑)」と語るのは、『喧嘩番長』シリーズのプロデューサーを務める平塚浩志さん。平塚さんは埼玉県・川口市生まれ。サラリーマン家庭に生まれた普通の少年時代を過ごした。だが、今でこそ明るく、人なつっこい笑顔と柔らかな語り口が印象的な彼だが、子供時代はかなりの堅物だったという。

「子供の頃の僕は、今とはずいぶん違ってましたね。小学校、中学校時代は勉強もよくやっていて、いわゆる優等生タイプ。冗談が通じないくらい真面目で、ものすごくおとなしい子でした。だから、友達もそれほど多くなくて……悪い言い方をすれば、まわりの大人や先生の顔色をうかがってるような。なんたって、自分で立候補して学級委員をやっちゃうんですから(笑)。人に褒められたい人間だったんでしょうね。今の僕なら、あんまり友達になりたいタイプではなかったとは思いますね(苦笑)」

 人と冗談を交えて話すのは苦手。友達がからかってきても、本気で怒ってしまうから、相手にしてみれば、けっして付き合い易い子供ではなかった。家に帰ってからの趣味もずいぶん内向的だった。

「スポーツが好きで、ふつうにサッカーをやったり、野球やソフトボールをやったりはしてましたけど、とりたてて趣味というものはなかったですね。ゲームも……流行ってはいたんですが、本体と『ファミスタ』をセットで友達に貸しっぱなしにしてたくらいで(苦笑)、僕自身はそんなにゲーム好きでもなかった。ゲームクリエイターとして取材を受けるのが申し訳ないくらい、子供時代のゲーム体験も少ないんですよ。あえて大好きなものを言うなら、マンガかな。特に『週刊少年ジャンプ』は毎号読んでて、大好きなマンガのページを切り取ってファイリングしておいて、オリジナルの単行本をつくってました(笑)」

 好きなマンガはどちらかといえば、ややマイナーな作品。その嗜好は、大人になった今でも続いているという。

「僕が生まれたのは1972年なんですが、どうやらこの年代は、俗に“スラムダンク世代”と呼ばれているらしいんですよ。テレビでそう言ってました(笑)。確かに、『スラムダンク』も『北斗の拳』も『聖闘士星矢』も大好きですけど、いちばん記憶に残ってるのは、小学校低学年のときに読んでた『ブンの青シュン!』(みやたけし作)ですね。野球マンガなんですけど、そのなかに“初速より終速のほうが速い球”っていうのが出てくるんです。今思えば、物理的にあり得ない話なんですけど、マンガの中ではものすごく理論的に解説されてるんですよね。魔球に科学的な説明が入る野球マンガをそれまで読んだことがなかったものですから、すっかりシビれちゃいました(笑)。あとは、『ゴッドサイダー』(巻来功士作)も心に残るマンガでしたね。言いまわしが独特なんですよね。どっちかというと、みんなが好きなメジャーな作品より、マニアックな香りのするマンガのほうが気になる。基本、B級ファンなんですよ、僕って(笑)。今、『喧嘩番長』の絵柄が独特な雰囲気なのも、そういう気質が反映されてるからかも知れませんね。あ、もちろん“いい意味で”ですけど(笑)」

 小学校時代の思い出といえば、平塚さんの心に強烈に印象に残っている体験がある。それが、交通安全子供自転車大会への参加。平塚さんの通う小学校は、学科試験と併せて自転車のジグザグ走行や板乗り、片手走行や旋回走行など自転車走行技術を競う全国規模の大会に、全校を挙げて積極的に取り組んでいた。

「大会の正式名称はよく知らなくて、当時、僕らは“安全な自転車乗り大会”と呼んでましたね(一同爆笑)。僕が通ってた小学校は特にそれに力を入れていて、県大会出場を目指すために、小学校4年生から6年生まで各クラスから代表選手がふたり選ばれて、1年間みっちり訓練させられるんですよ。ただし、選手に選ばれたといっても、特別な選考基準があったわけでもなく。HRみたいな時間に“習い事をしてない人、手を挙げて”と担任に言われて、挙手したのが僕ともうひとり。じゃあ、そのふたりに決定、みたいな(笑)」

 始めは嫌々ながら練習に挑んだ平塚さん。だが、そこで生まれて初めて挫折を味わい、元来の真面目で負けず嫌いな性格に火がついた。

「最初にクラスの代表が全員集まったときに、交通規則が出題される学科試験の模擬テストをやったんですが、僕、その問題が全然できなくて、歴代最低点を取ってしまったんですよ。そうしたら、まわりのみんなにずいぶんバカにされて。僕は、勉強ではそれまで優等生だったので、最低点を取ったことがものすごく悔しくてね。僕の人生にとって、それが初めての挫折だったんですよ。だから、これ以上はほかの子に負けたくないと思って、そこからは一生懸命でした」

 それからの平塚さんは、夏休みも冬休みもなく、毎日、自転車と格闘した。練習を重ねるうちに、腕もめきめき上達。チームはもちろん、個人でも優秀な成績を治めるまでになった。

「練習はものすごく厳しかったですよ。ウチの小学校は、その筋では名門だったみたいで(笑)。朝8時から朝練があって、放課後、遅いときは夜の10時まで、毎日。もちろん、顧問がついてですけど、誰よりも多く練習しましたね。おかげで、5年生のときには川口市の大会でチームはもちろん1位。僕個人も2位〜3位くらいの成績で。県大会でもチームは2位で、僕も4位くらいに入ってました。4年生から5年生までの2年間は、まさしくスポ根マンガの世界で暮らしてました。僕は中学・高校でも運動部をずっとやってましたが、小学校時代のこの練習が、生涯でいちばん苦しかったですね(笑)。ところが、これにはオチがあって、次に、本当なら全国大会に行けるはずだったんですが、春先に顧問の先生が転勤になってしまい、そのあと、誰も顧問を引き受けてくれなかった。結局、全国大会には行けずじまいだし、その後、チームも解散しちゃって。あれにはガッカリしましたね」

『喧嘩番長2』にはバイクだけではなく自転車も登場するが、そこには、小学生時代の自転車大会の思い出も詰まっているのかも知れない。もちろん、その真相は、平塚さんしか知らぬことではあるが。

バレーボールに熱中した中学時代

photo 「中学校に上がっても、僕は小学生時代から引き続き、相変わらず、生真面目な少年ではありました。あまり気の利いた受け答えができるようになったわけでもなく、友達の数もそれほど多くなく。誰とでも仲良くなれる感じの子供でもなかったですしね」

 とはいえ、口が立たないぶん体を動かすことは大好きで、自転車大会に持ち前の負けず嫌いな根性を発揮したように、中学から高校にかけての平塚少年は、今度はバレーボールに打ち込んでいった。

「それまで、特別にバレーが好きだったわけでもなかったんですよ。ちょうど同じ中学校にイトコが通っていて、文科系の部活に入るのはなんとなくイヤだったから、そのイトコに“ラクな体育系の部活はなに?”と聞いたら、バレーボールだと言われた。だからバレー部に入ったんですけど……その情報が全くのウソで。ヤンキーはいるし、練習はメチャメチャ厳しいしで、その中学でバレー部に入るなんて、よっぽど気合のいることだわかったんですよ。後から、イトコに“バレー部に入ったよ”と報告したら、“マジに!? あそこの部、怖いんだよねー”って言われましたからね(笑)」

 おとなしい少年だったという平塚さんだが、ここぞというときには、ド根性を発揮する。学内でも厳しいと評判のバレーボール部では、スポ根ドラマめいたエピソードもいろいろと経験した。

「2年生のとき、僕ともうひとりとで、セッターのポジション争いをしてたんですよね。そのときに僕、手の小指を骨折しまして。でも、そこで休んだら、正セッターの座を取られちゃうので、テーピングでごまかしながら練習を続けたりしてました。結局、指をかばってるとフォームがくずれちゃうんで、セッターにはなれず、センタープレイヤーに転向することになっちゃうんですけど。あと、思い出すのが、中1の頃。テレビで『スクールウォーズ』が流行ってて、先輩がその真似をするんですよ。いきなり後輩を集めて、ビンタしたりね(笑)。今だと大問題になりそうなんですが、当時はまだまだ大らかな時代でしたから、僕も“なんで?”とは思いながら、部活を辞めることもせず、素直に先輩に従ってました。やっぱりバレーボールが面白かったし、僕って、何か理不尽な仕打ちをされてもへこたれずに、相手を見返してやろうと、逆に頑張るタイプなんですよね(笑)」

 ところで、その中学校。平塚さんが所属していたバレーボール部には、ツッパリっぽい先輩もいたという話だが、いったいどんな学校だったのだろうか?

「僕の中学生時代は、世代的には、いわゆる『積み木くずし』な盛り上がりを見せていまして(笑)、校内暴力の最盛期が一段落したくらい。僕の中学も、まだそれなりに乱暴な事件があったりなかったりでした。残念ながら、僕は、そういう事件には全く参加しませんでしたけど、リアル『喧嘩番長』な世界を目撃することは多かったですね。そういう意味では、この時代の経験が、現在のゲーム制作の仕事に役立っている……と言えないこともないのかな?(苦笑)」

高校時代に事件が発生、それは?

photo  バレーボールに打ち込んでいた平塚さんの生活。高校に進学しても、同じくバレーへの情熱を失うことなく、部活に励む毎日だった。だが高校2年のとき、平塚さんにひとつの事件が起きる。しかも、女の子をめぐって。

「高校2年生のとき、友達から恋の相談を受けたんですよ。好きな女の子がいて、どうしようかって。ところが、その友達の好きだった女の子から、僕が告白されちゃったんですよね。しかも、僕は僕で、そのとき付き合っていた彼女が別にいたんです。まるで、ドラマのクライマックスですよね(笑)。ドラマみたいな雰囲気に酔っちゃってたこともありで、結局、友達も彼女も裏切って、告白してくれた女の子と付き合うことにしちゃったんですよ。忘れもしない、朝7時(笑)。友達に呼び出されて、朝っぱらから男二人して泣きながら語ら合いましたよ。うーん青いですね。」

 話を聞けば、その葛藤ぶりはまるで青春ドラマの1シーン。友達との確執を乗り越えて成就した、新しい彼女との恋愛ならば、さぞハッピーに進んだだろうと思ったら?

「ところが、付き合って2週間もしないうちに、彼女に振られちゃったんですよ。きっと彼女も、そのときは雰囲気に酔っていたんだと思うんですけど、デートすらできずに別れました。それまで、地道に真面目に生きてきた僕にとって、今まで経験したことのないほどの修羅場を経て、そんな結末でしょ?もうショックで、次の日から真面目に学校に通う気がしなくなりましてね。雨が降ったらからと休んでみたり、学校をさぼって、ひとりで自転車で豊島園に行ってみたり……」

 その事件の後、平塚さんは、ひとりで映画やテレビを観て過ごすことが多くなり、落ち込んだ日々を過ごすようになったという。

「人を裏切ってしまったという後ろめたさだと思うんですけど、それまで以上に人との距離を置くようになりましたね。部活は楽しかったし、親しい友人とは仲良くやってましたけど、よく知らない人と話をするのがすごく苦手になって。上手に言葉も出てこない。軽い対人恐怖症みたいなものだったのかも知れないですね」

 その頃、孤独な気持ちを抱えた平塚さん慰めてくれたのは、ハリウッドの古典映画『雨に唄えば』であり、アニメの『超時空要塞マクロス』であり、お笑いバラエティの『オレたちひょうきん族』だったという。

自分を変えるために選んだ大学は関西にあり

photo そんな毎日を過ごすうち、平塚さんは大学進学を考える時期にきた。そこで、彼が思いついた進学先は、自宅から離れた関西の大学だった。今まで自分がいた環境とは全く違った土地で人と交流することで、対人恐怖症を克服しようと考えたのだ。

「そこで、関西の大学を探してみたんです。僕の勝手なイメージなんですけど、お笑い芸人さんだけじゃなくて、関西の人ってみんなお喋り上手じゃないですか。まわりがそういう環境だったら、僕も自然とその仲間に入れるようになるんじゃないかと思って。今までと同じ環境では、僕自身も一生変わることはできない。自分を変えるために、埼玉を離れようと思ったんです」

 そこで受験したのが、京都にある龍谷大学。ところで、そこを選んだ理由は?

「理由はいたって単純で、名前が格好よかったから(笑)。実は、大学に行くこと自体もギリギリまで真剣に考えることをしてなくて、受験勉強を始めたのも高3の冬から。かなり遅かったんですよ。だから、試験科目の少ない学校で、名前にピンときたのがそこでした。校風をじっくり調べるということもしていなかったので、歴史と伝統のある仏教系の大学だということも全くわかってなかった。入学式でいきなり数珠を渡されて、ほんとにビックリしました(笑)」

 地元からの進学の多い龍谷大学は、平塚さんが目指していた環境には、確かにピッタリの学校だった。初めは関西出身の賑やかな学生たちに圧倒された平塚さんだったが、彼らは、おとなしかった平塚さんのことも楽しく“いじって”、心を開かせてくれた。彼らの日常会話のなかでのボケとツッコミの応酬も、平塚さんにとっては勉強になることばかりだったという。

「新しい環境が、僕にとっていいリハビリになりましたし、まかないの食事が食べられるからということで、居酒屋でアルバイトを始めたのもよかったんですよね。その店には、同じアルバイト仲間に、今芸人として活躍しているブラックマヨネーズの吉田(敬)くんがいたんですよ。残念ながら親しい友達ではなかったんですが、人気芸人になるだけあって、彼の人をなごませる接客術は素晴らしかった。すごい人がいるんだなぁと、感心しましたね。居酒屋のアルバイトは1年ほどで辞めてしまったんですが、そこでずいぶん友人関係も広がりましたよ」

 この頃から、平塚さんはそれまでとは打って変わって性格も明るくなり、チームリーダー的な積極性を発揮しだした。同じ大学に通う居酒屋時代のバイト仲間を中心に、大好きなバレーボールのサークルの立ち上げに参加したり、自宅を仲間たちに開放して、一緒にバカ騒ぎをする楽しい日々を送っていった。そして、その日々のなかで、平塚さんはゲームの楽しさにも出会うことになる。

「居酒屋の次にアルバイトをしたのが、新京極にあるオモチャ屋さんだったんですよ。ところが、僕がオモチャ屋のバイトに一生懸命になってるうちに、居酒屋時代につくったバレーボールサークルの人数が激減するという事件が起こったんですね。一時期は、同じ大学の連中とほかの大学の友達が続々集まって60人ほどに増えたメンバーが、たったの7〜8人にまで落ち込んだというんですよ。そこで、サークルのヤツから声が掛かって、平塚、なんとか状況を改善してくれと言われて考えたのが、僕の部屋をみんなの遊び場にしようじゃないか、ということだったんです」

 そこで平塚さんは、アルバイト先のオモチャ店でみんなが一緒に遊べるゲームやオモチャを買いあさり、自分の部屋をみんなのエンタテイメントスペースとして活用してもらうことにした。

「まずスーパーファミコンを買って、パーティゲームとして楽しめるタイトルを探して、社員割引でたくさん仕入れました(笑)。やっぱりアクション系の対戦ゲームは決着がつきやすいので、『ストリートファイターII』とか『ゼロヨンチャンプ』はかなり盛り上がりましたし、僕もどんどんゲームが上手になりましたよ(笑)。遊び方もいろいろ自分たちで工夫しながら。そこで、ゲームというものが人をとても楽しませる、素晴らしいコミュニケーションツールであることを実感したんです」

 友達との遊びのためにゲームに触れる機会が人より多くなった平塚さんは、当然、ゲームを見る目も肥えてくる。アルバイト先でも、面白いゲームの情報を見逃さないようになった平塚さんは、いつしかオモチャ店のゲーム担当者のサポートとして、ソフトの仕入れの手伝いをするようになっていった。

「どのタイトルをどれだけ仕入れるのか、最終決定は店長や社長がするんですけど、そこは年配の方々なので、実際、売れるゲームなのかどうなのかは店長たちもよくわからないんですよね。そこで、ゲームのことをよく知ってる僕がだいたいの仕入れ数をアドバイスしていたんですね。一般のユーザーとは違ってショップは生活がかかってますから(笑)、仕入れの数を誤ると、すごい損失になっちゃうんです。そこで、遊んでみて面白いゲームだということは当然ですけど、どれだけ話題性があるか、どれだけユーザーにタイトルが浸透してるかも、売り上げには影響するんだということがよくわかりました。あのときの感覚は、その後に僕が就いた広報の仕事にも、今のプロデューサーという仕事にもずいぶんいかされていると思います」

大学卒業、夢を抱えて就職を

photo 結局、そのオモチャ店でのアルバイトは大学卒業まで続き、平塚さんも就職する時期となった。どういう仕事を選ぼうか?その選択肢のひとつに、ゲームの販促を手がけてみたいという想いがあった。

「オモチャ屋のアルバイト時代、仕入れの勉強のためにおもちゃショーに行ったことがあったんです。そのとき発表されていたのが、ナムコのクラッチ付の初代『リッジレーサー』の筐体でした。ゲームにもインパクトがありましたけど、その展示の仕方が、ほかのオモチャやゲームとは一線を画していたんですよね。ブースにレースクィーンの女性たちが並んでいて華やかだし、それがゲームのイメージをよく伝えていた。ゲームをイベントとして見せるというやり方があるんだということに気づいて、それを企画する仕事に就いてみたいと思ったんです。それはよかったんですけど、大学進学のときと同じように、実は僕は就職をあまり真面目に考えてなくて、仕事を探そうと思い立ったのは、また卒業のギリギリになってから(笑)。あわてて、広告代理関連の会社をいくつか探して、京都が本社で、東京支社があるSP事業を手がける会社に就職ができました」

 そこで平塚さんは、東京支社に配属になり実家へと戻った。だが、その会社は平塚さんが望んでいたゲーム方面の仕事やイベント企画はまだ手がけていなかった。入社して1年間は、先輩の仕事を引き継ぐ形で販促物の製作やマーケティングを勉強していた平塚さんだったが、そのうち、なんとしてもゲームやイベントにまつわる仕事をやってみたいと思い、会社四季報を調べながら、さまざまな会社に飛び込み営業を掛けることにした。

「コネもなければ営業のノウハウもろくに知らなかったので、ほんとに体でぶつかるしかなかったですよ。ペットフードの会社に行って、何しに来たと怒鳴られても、そこでねばって話を聞いてもらったり。昔は人と上手く喋ることのできなかったのに、そのときは、ずいぶん頑張れるようになったと自分でも感心しましたね(笑)。そんななかで、いちばん最初に取れた契約が、ゲーム会社の仕事だったんです。やっぱり、僕はゲームにまつわる仕事がしたかったので、これはうれしかったですね。ジャレコさんの……確か『忍者じゃじゃ丸くん〜鬼斬忍法帖〜』だったと思うんですが、じゃじゃ丸くんの等身大ポップの製作を請け負いました」

ついにゲーム業界へ〜広報の仕事で得たもの

photo ジャレコとの仕事をキッカケにゲーム業界の一端に触れた平塚さんは、ますますゲームにまつわる仕事への想いをつのらせていった。彼の目標はゲームイベントの企画。ならば、やはり代理店業よりも直接メーカーに就職したほうが目標への早道だと思い、SP事業会社の2年間の勤務ののち、ゲームメーカーへの転職を決意する。再就職した先は、『A列車で行こう』シリーズなどでおなじみのアートディンク。平塚さんは、当時アートディンクには担当が不在だったソフト広報の仕事を任され、ここでも独学で経験を積んでいった。

「僕が担当になるまでの数年間、アートディンクでは広報担当者が不在という時期があったんですね。前任者の方もいたんですけど、その方が宣伝部署から他部署に代わったこともあり、せっかくだから自分のやり方を探しなさいという感じで放置状態でした。ですので僕は他社の広報さんと仲良くなって、ゼロからいろいろ教えていただいきました。当時は、初代プレイステーションの最高に盛り上がっている時期だったので、広報のみなさんもテンションが高くて、凄い業界に来ちゃったなーって思いました。(笑)」

 アートディンクで約5年、続いてチュンソフトで約2年間、その後、スパイクに転職し、平塚さんはベテラン広報マンとしてのキャリアを重ねていった。そして、スパイクでも広報の仕事を続けていた平塚さんは、『喧嘩番長』第1作目を機に、プロデューサーに名乗りを上げる。

「チュンソフト時代、プロモーションビデオやゲーム中に流れるムービーを編集する作業をしていたんですが、それがとても面白くて、モノをつくるほうに興味を惹かれていたんですよね。そして、スパイクに転職してもしばらく宣伝・広報をやっていたところで『喧嘩番長』の制作が始まり、ちょうど会社の組織変更の時期でもあったので、だれか新しいプロデューサーをたてようという話が出たんです。僕は、これはいい機会だと思ってつい立候補しちゃったんですよね(笑)。そうしたら、僕の勢いと熱意が伝わったのか、任せてもらえることになったんです」

 ややマニアックな色の漂う『喧嘩番長』の企画は、子供時代にほかとはひと味違うマンガが大好きだった平塚さんの心をグッと掴んだ。そこで平塚さんは、開発チームと一丸となり、キャラクターの絵柄にあえてアクをつけてほかのゲームとの差別化を図り、ユーザーにインパクトを与えるさまざまな工夫とキャッチーな要素を盛り込んで、『喧嘩番長』を個性的な作品へと進化させていった。

「ゲームをつくる上で、広報の仕事から得たものはとても大きかったですね。広報はゲーム企画書の段階から開発チームと付き合っていきますが、このタイトルのどこがより面白くなっていくのか、どういう部分を掘り下げてプロモーションすればいいのかを、冷静に判断しなくてはならないんです。今、僕がやっているプロデュース業というのは、ゲーム開発者のさまざまなアイデアのなかから、どれを取捨選択して育てていくかを問われる仕事。どのアイデアをピックアップしてゲームに入れ込んで、ユーザーの方々に、わかりやすく伝えていったらいいか。それを考えるのがプロデューサーだと思うんですよ。いくら内容が面白くても、それがユーザーに伝わらなければ意味がない。そういう部分のノウハウは、多少ですけど、広報の仕事を通じて得たものが役立っていると思います」

シリーズ最新作にこめた想いは?

photo 開発チームの努力と斬新な企画性で、第1作目が話題を呼んだ平塚さんプロデュースの『喧嘩番長』。3月8日には、シリーズ最新作となる『喧嘩番長2』がいよいよ発売となる。広報からプロデューサーへと転身し、平塚さんの本格的なクリエイターデビュー作となったこのシリーズは、特別な想いが残る作品だと思うが?

「それはありますよね。僕にとっては、ここで扱っているツッパリの青春という題材は、自分の若い頃に体験した空気ともリンクしています。僕は、まさにリアルタイムでツッパリを見ていた世代。彼らは、見た目が派手でただ乱暴な人たちというイメージがありますけど、当時の友達はみんな、何かしら悩みを抱えながら青春を過ごしていたんですよね。それは、家庭の事情もあったし、恋愛や友情の葛藤もあった。だから『喧嘩番長2』には、そういう青春ドラマの要素もいろいろ盛り込みたくて、ストーリー要素を強めるようにつくりました。ツッパリたちの見かけだけじゃなく、彼らの内面的にも迫れたんじゃないかと思います。マルチエンディングにしたのも、いろいろなドラマを楽しんでほしかったから。爽快なものから、かなり純文学的な……今までのゲームにはないようなエンディングも用意してあるので、時間をかけて楽しんでいただけるものになっていると思います」

 さらに平塚さんは、こんな部分へのこだわりも見てほしいと語る。

「昔から僕は、ひとつの物語でも違った視点から見ると、その在りようが変わる作品というのが好きなんですよね。それを『喧嘩番長2』では、主人公が敵対勢力のどちらにつくかで物語の追い方が変わるというストーリー面からも実現しているんですが、システムにもあるギミックを入れてあるんですね。普通にプレイしていると分からない程度なちょっとした仕掛けがあるんですが、そこに気づくとゲームのプレイ感が全く変わるようになっています。詳しく言うとネタバレになってしまうので、この程度のわかりにくさでしか説明できないんですが(笑)、ぜひ、コアなユーザーの方に気づいてほしいなぁと思ってます。あとは……フィールドを素敵な箱庭につくれたことがうれしいですね。みなさんが、どこかで見たような風景がいろいろと再現されていますので、喧嘩に精を出す合間に、バイクでフィールドを駆けまわって、箱庭感覚をたっぷり楽しんでいただきたいと思います」

 そして平塚さんに、シリーズの今後を問うと?

「今まで2作で描いてきた“不良”という題材は、それぞれの年代に必ず存在する“文化”だと思うんですよ。だから、まだまだ面白い不良のエピソードはあるし、いろいろな描き方ができる。“PS2”というフォーマットでの『喧嘩番長』は、『2』が最後になるかもしれませんが、これは僕にとっても思い入れの強い作品です。どんなカタチになるかはまだ未定ですが、『喧嘩番長』は、これからも続けていきたい大切なシリーズなんです」

 ツッパリブームを肌で体験した平塚さんが、さまざまな仕事の経験をいかしてつくり上げた『喧嘩番長2』。さらに平塚さんは、『喧嘩番長』シリーズ以外にも、現在、開発を進めているタイトルがあるという。その内容は「『喧嘩番長』とは全く傾向は違いますが、僕の若い頃からの思い入れを詰め込んだ作品」とか。発表が楽しみだ。

◇よろしければ今回のインタビューのご感想をお聞かせください。
Back Number
2007年1月 山本吉輝氏
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