つくったもので人を楽しませたい、驚かせたい。そのための手間と努力は惜しまない。
 河野 力

個性的な作品をつくり出す注目のゲームクリエイターに“あなたができるまで”を訊くロングインタビュー企画「THE EARLY DAYS」。10回目のゲストは、PSP®「プレイステーション・ポータブル」のアクションゲームに新風を吹き込み、海外でも多数の賞を受賞している『LocoRoco』のゲームデザイナー・河野力(こうの つとむ)さんだ。幼い頃から、人を喜ばせる“ものづくり”が大好きだった河野さんの歩みは、そのままゲームデザイナーとしての今に直結している。コンピュータとロボットづくりの魅力にハマった学生時代から、SCEで『LocoRoco』を完成させるまでの道のりを取り巻くエピソードには、河野さんの“ものづくり”への確固たる信念と大いなる努力がある。

取材・文/阿部美香(ライター)

Contents

小学生でPCゲームを自作していた〜幼稚園から小学校まで

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『LocoRoco』のゲームデザイナー/ディレクターとして活躍する河野力さんが生まれたのは、静岡県東部、温暖な気候と美しい自然に包まれた伊豆半島の付け根に位置する三島市だ。河野さんの子供時代の思い出は、まず幼稚園での“ものづくり”の楽しいエピソードからスタートする。

「砂団子ってご存知です? 砂を水で固めて、というのを繰り返して、カチンカチンに固めて団子状にするんですけど、僕、あれを200個つくったんですよ。園内で流行ってただけで、僕が勝手に200個つくっちゃっただけなんですけどね(笑)。あとは、ゲームづくりですね。木の板に釘を何本も打ちつけて、そこに球を転がして点数のついた穴に落とすという……いわゆるスマートボールみたいなゲーム。それをコツコツつくって、友達にやらせて、面白く遊んでいる姿を見て喜んでいました。もともと、絵を描いたり工作したり、というのが大好きだったんです。そのへんに落ちている木の棒やゴミを拾っては、遊び道具をつくって友達に遊んでもらったりとか」

 幼稚園児にして、まぁずいぶんと……。今までこのコーナーで取材をさせていただいたゲームクリエイターのみなさんは、早くから“ものづくり”への才能を発揮してきた方が多かったが、河野さんはその中でもかなり早熟なクリエイターだ。さらに、手づくりのゲームに飽き足らず、小学生ですでにコンピュータゲームをつくり始めるようになった。

「小学校2〜3年のときに、パソコンを持っている友達がいて、それを見て興味を持ったのがキッカケです。うちの横に電器屋さんもあったので、そこで売っていたパソコンを毎日のようにカシャカシャ打ちにもいきました。機種でいうと……シャープのMZ-80Cとか、そういう時代ですね。まだ画面が緑色してましたから(笑)。とにかく、キーボードを押すと画面に文字が出るというのが楽しかったんですよ。そうしてるうちに、親が小学5年のときに富士通のFM-77を買ってくれたんです。それからですね、BASICでゲームをつくるようになったのは」

 特に夢中になってつくったのは、PCを手に入れてからよく遊んでいたテキスト(コマンド)入力タイプのアドベンチャー。主人公が何か行動を起こす際に、「何を」「どうする?」か、いちいち単語を打ち込んでいくシステムだ。

「自分が好きで遊んでいた市販のアドベンチャーを真似て、まず部屋を見渡して、部屋の中に椅子とタンスがあるのを見つけて、椅子をタンスの前に持っていって、タンスの上にある鍵を入手して、閉じ込められた部屋から脱出する、というようなストーリーのゲームをつくってました。まずは練習と思って作った小さい規模のゲームですが、色々な単語に対してリアクションが必要な為、非常に大変な作業量でした。出来たゲームは友達にプレイしてもらうんですが、みんなが僕のゲームにどんな反応をしてくれるのか、それを確かめるのが楽しかったんです」

 このタイプの国内産アドベンチャーゲームが登場したのは、1982年に発売された『ミステリーハウス』が最初といわれている。河野さんが、アドベンチャーを自作し出した時代は、まさにPCアドベンチャーゲームの黎明期にあたっている。

「自作ゲームだけでなく、プログラム雑誌に載っている他の機種のプログラムを自分のマシンで動かせるように、移植作業もしてました(笑)。BASICは機種が変わってもほとんど一緒なので、中身を解析して。ほかにも、ドット絵を描くためのツールを自作したり、横スクロールのアクションゲームを自作したり。あまりにもゲームづくりが面白すぎて、小学生のくせに徹夜したこともよくあります。集中しだすと、一度つくり始めたものは絶対に諦めたくない。そうやって、何度も自分で修羅場をつくりつつ乗り越えた経験があるので、今でも“どんなに苦しくても、絶対に完成させられる”という自信があります(笑)」

 なんとも早熟なゲームクリエイター時代を過ごしていた河野さん。もちろん学校の勉強も理数系、特に算数が大の得意科目だった。

「幼稚園から公文式を始めていたので、算数が大好きになって。塾では、2学年上の子と一緒に勉強をしてました。公文式はいいですよ! すごく集中できるんです。単純な数字の計算を繰り返していると、頭の中にα波のようなものが出てくるのがわかる。さらにそれを繰り返していくと、そのα波をコントロールできるようになるんですよ。集中力を高めたいときは、先にα波を出してから仕事を始めると、とても効率がいい。大人になってからも、この訓練にはお世話になっています。みなさんにも、ぜひ公文式をおすすめしたいですね(笑)」

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映画で興味を持ったロボットを自作〜中学校時代

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 河野さんのクリエイティビティは、中学でも発揮された。それは中学1年の夏休み。つくったものは何かといえば?

「ロボットです。ちょうどその頃、『ショート・サーキット』という映画を観て、すごい衝撃を受けたんですよ。自分もあんな、自由に動くロボットをつくってみたいと思ったんですね」

 中学生がつくるロボットなんて、たかが知れていると思うだろうが、そんなことはない。それは、頭が上下左右、手の開閉、体が前後左右に動く本格的なもので、さらに音声認識センサーに反応して、何かの声が聞こえたら音で反応して目が動くというギミックもつけられていた。設計図などはどうしたのだろう?

「そのあたりは適当ですね(笑)。設計図ともいえないラフ画を描いて、アクリル板を適当なサイズに切って、タミヤのモーターをたくさん買ってきて組み立てました。ロボット関連の専門書をみたり、デザインは『ショート・サーキット』のビデオで研究して。目の動きなどは、自動車の前輪の構造を参考に。動きの仕組みの近いものを、いろいろなところから持ってきて仕上げました。夏休み中、家に籠ってつくり続けて、外に出るのは模型店に部品を買いに行くときだけ(笑)。さすがに部屋は大変なことになっちゃいましたけどね。ゴミとベッドしかない、みたいな(笑)。おかげで、そのロボットは学校内でも評判になり、次の年に三島市で発明品を募集するコンテストに出品したら、三島市の市長賞をいただきました。僕が卒業してもしばらく、学校の校長室の前に僕のロボットが飾られていたようです」

 コンピュータゲームからロボットまで。つくりたいと思ったものを、徹底した集中力で仕上げてきた早熟なクリエイター・河野さんの“ものづくり”は、ここからちょっと方向転換。次に夢中になったものは意外にも?

「ものづくりに没頭したのは中1のときのロボットだけ。中学2年からは、麻雀とゲームばかりやっていました(笑)。特に麻雀。たまたま、友達の家でやってみたらずいぶん面白くて。麻雀というと聞こえが悪いんですけど、単純にゲームとしての完成度の高さが、僕らを夢中にさせてたんですね。ファミコンで対戦するのと、同じですよね。まぁ、あまり中学生にはおすすめできない趣味ではありますけど……(笑)」

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コンピュータゲーム遍歴と高校時代の河野さん

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 ところで、小学生からPCを操ってきた河野さんは、当時どんなゲームを遊んでいたのか。このあたりで、ぜひゲームの話も。

「そうですね。小学校から中学校までは、基本はPCゲームでしたね。僕がゲームの自作を始めたころに、ファミコンも出てきたんですけど、僕がファミコンを始めたのは遅くて、中学に入ってからでした。最初に遊んだファミコンはナムコの『バトルシティ』。2番目が『スーパーマリオブラザーズ』でしたね。PCのほうは……中学に入ると、それまで持っていたマシンは古くなってしまったので、市販のソフトを手に入れて遊ぶのは相変わらずでしたが、自作熱はちょっと冷めてきてました。さらに、ファミコンのディスクシステムを手に入れて、コンシューマゲームにも一生懸命で……あまりゲームばかりやっているので、親にハードを隠されることもしばしばでしたね(笑)」

 河野さんが当時遊んでいたゲームで印象に残っているのは、ディスクシステムでは『ゼルダの伝説』『パルテナの鏡』『謎の村雨城』『ザナック』。PCでは『ハイドライド』『トリトーン』『ラリパッパ野球団』『ぐっちゃんばんく』などのアクションゲームや、小学校時代から夢中になっていたアドベンチャー、『ミステリーハウス』『サザンクロス』や『デゼニランド』『スターアーサー伝説』『コロニーオデッセイ』のシリーズだった。そして、いちばん衝撃的だったのが、一世を風靡した日本ファルコムの『ザナドゥ』!

「『ザナドゥ』は、あの時代にしてはあまりにもカッコいいゲームでしたね。ちょうどFM音源が使えるようになったときでしたから、音楽も素晴らしかった。高校生になると“ポケコン”で自作ゲームをつくるようになるんですが、そのときのRPGが、ちょうど『ザナドゥ』のボス戦だけを集めたような内容。それまで1〜2行表示だったポケコンの画面が4行表示になった時代で、4行あると縦が32ドットの大きなドット絵が描けるんですよ。授業中に(笑)、先生の目を盗みながら、スライムやドラゴンがアニメーションするRPGをつくりました」

 さて、ここで話を河野さんの半生に戻そう。中学でゲームとしての麻雀の面白さに目覚めた河野さんは、地元の日本大学三島高等学校に進学。そこを選んだ理由は?

「中学の仲のいい友達がみんなそこを目指してたという理由がひとつと、共学なので楽しそうという理由がひとつ。ただ、共学……のつもりで入ってみたら、なんと女子と男子は別校舎で。それには、がっかりしましたね(笑)。その高校で、僕は何をしていたかというと……引き続き、麻雀とゲームを一生懸命(笑)。でも、その麻雀が、小学校時代のゲームづくりと同じように、僕の人格形成にすごく影響してるんです。自分がどんな逆境に立たされても、絶対に諦めない。例え、持ち点が1000点になってしまっても、絶対そこから逆転するつもりで頑張る(笑)。土壇場で諦めずに頑張るクセが、小学校時代のゲームづくりと、中学・高校時代の麻雀で身についたんです。麻雀をやってると、社会人になってからの人付き合いもよくなりますしね(笑)」

 高校時代を振り返り、河野さんは「うーん……遊んでばかりだった、ということですかね?(笑)」と笑う。そして、やってくるのが受験シーズン。河野さんの志望校は?

「実は僕、英語を勉強したくて、アメリカの大学に行くつもりだったんです。子供の頃に読んだロサンゼルスのガイドブックが楽しくて、アメリカに憧れていたというのもあるんですが、そもそも日本の大学に、あまり魅力を感じてなかったんですよ。このまま普通に進学して、普通に会社に就職するのもつまらないと思っていましたし。でも、高校の担任に、アメリカの大学を出ても日本では卒業したことにならないと言われて反対されて。親も説得して、行きたい学校も決めてたんですが、将来日本の大学をでなかったことを後悔するんじゃないかと思って諦めました。ですが会社入ってみて、やっぱり英語を身につける為にアメリカの大学に行くべきだったなと思います」

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オリジナルな研究課題が『LocoRoco』の原型に〜大学時代

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 アメリカの大学行きを断念した河野さんは、現役時代に国内でいくつかの大学を目指してみたものの、やはり目標は定め切れず。希望校を逃し、予備校に通うことになった。

「高校卒業のときにはぼんやりしていた志望校をはっきりと決めたのは、浪人中でした。付属校時代の同級生が、日大の工学部に何人か行ってたんです。工学部は福島県の郡山市にあるんですが、話を聞くと非常に魅力的なんですよね。工学部というくらいだから、もしかしたら、昔工作でつくったものより、もっと性能のいいロボットをつくれるんじゃないかと。あとは……郡山は雪山が近いから、スノーボードがいつでも遊べるぞ、と(笑)」

 結局、ロボット研究を目指してほかにもいくつかの大学工学部に合格した河野さんだったが、友達と一緒にスノボが楽しめるという誘惑には逆らえず、日本大学工学部に進学を決めた。

「大学時代は、スノボとゲームに夢中でした。特にスノボですね。生活もスノボ中心。ワンメイクと言って、大きなジャンプ台でトリックをきめることにはまっていたのですが、怪我しないようにジムに通って鍛えたり、毎年新しい板を買うためにバイトをしたり、パソコンを買ってスノボビデオの覚えたいトリックをキャプチャして何度もイメージトレーニングをして。さらに、指を差し込んで動かせるような、プラ板とゴムホースを材料にしたミニチュアのスノボをつくって動きを見たり、紙粘土で人形をつくって、トリックの動きを研究したり……。SCEにもスノボのゲームの企画書を提出しました。」

 ところで、肝心の勉強のほうは……?

「それが……いざ工学部の本格的な勉強が始まると、全く授業が面白くなかったんですよね(笑)。水力学だとか、非破壊検査だとか、ネジの設計とかあまり興味のないものばかりで。ロボットはいったいどこに行っちゃったんだと(笑)。それに、僕は大学に入ったら、『Dr.スランプ』に出てくるタイヤのないバイクあるじゃないですか、アレを発明するくらいのつもりでいたんです。だから、研究室に進むときも、ロボットがつくれそうなメカトロニクス研究所を選んだんです。ただ、先生から“この中から好きな研究を選びなさい”と、いくつか渡された研究課題を見てみても、ロボット研究に限らず、あまり魅力的じゃありませんでした」

 研究室に入ったのは大学4年目。先生に見せられた課題の束の中には、確かに、ロボットの遠隔操作の研究もあった。しかし、研究材料となる研究室にあったロボットは、オモチャのラジコンと大差ないクオリティ。しかも河野さんは。

「そのときはもう、ゲーム業界に就職しようとぼんやりと考えていたんです。だから、どうせ研究するなら、就職にも役立つことをやりたかった。だったら、僕も先輩から受け継がれた研究課題をこなすだけじゃなく、何か自分の作品だと言えるものをつくらなければならないと思いました。それなら、少しでもゲーム制作に関係ある課題を選んだほうがいいだろうと、人工知能を使ったシミュレーションを、新たな研究課題にしたいと先生に申し出ました」

 そこからの河野さんは、ひとりでコツコツと、先輩からの受け売りではない、自分自身で決めた研究課題にいそしんだ。

「具体的には、複数の人工知能を持ったキャラクターを生活させたら、そこでどんなことが起こるか? という内容。キャラのアニメーションを沢山書いて、VISUAL BASICでプログラムを組んで、1本のシミュレーションデモをつくり、最終的に、それを卒論にまとめました」

 河野さんの地道な努力が作品化したシミュレーションソフト。しかもそれが、『LocoRoco』の原型だったのだと、河野さんは付け加える。

「当初の予定では、3D空間でAIキャラクターを1000体くらい表示して、そいつらが生活するときに何が起こるかを眺めるゲームにしようと考えていましたが、制作を始めてみると……ゼロからのスタートで、僕ひとりで完成させるのは大変なことだと気づいたんです(苦笑)。そこでぐっと方向転換をしまして、表情が2Dアニメーションする4体のキャラクターを配置して、それぞれがAIで動くというシミュレーションになりました。キャラクターにはそれぞれ視界があり、自分の視界にほかのキャラクターが入ってくると、まずその相手に対する感情がシミュレートされ、相手を好きだと思うと追いかける。追いつくと、そこでランダムな会話が始まり、会話した相手に対する感情の変化によって、その後の行動が変わっていくという。また、その世界には時間の概念があって、時間が経ってキャラクターがお腹を減らすと、近くの木の実をもいでパクパク食べるし、眠くなると自分の家を探して寝にいくんです」

 内容を聞くと、確かに後の『LocoRoco』の主人公であるロコロコたちの行動にも通じるものがある。

「しかも面白いことに、AIで動くキャラクターたちは、キャラ同士が三角関係で追いかけっこをし始めたりと、つくり手が想像しないような行動をいろいろするんですよね。このゲームも内容は貧弱でしたが、AIキャラクターを使ったゲームは、想像以上に面白いということがわかったんです。それはひとつ、大きな収穫でしたね」

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大作ゲームの開発で得たものは?〜SCE入社

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 バタバタではあったが、河野さんは持ち前の粘り強さと集中力を発揮して、AIによるシミュレーションゲームを題材に卒論を完成。その後、就職活動にいそしんだ。志望したのは、SCEを始めとする数社のゲームメーカーで、第一志望だったSCEには、大学で研究した例のシミュレーションゲームのデモを作品として提出。SCEを第一志望にした理由は「PlayStation®にも興味があったし、ソニーの名のつく会社だったらゲームに限らずいろんなことができそうだったから」。実際に作品を提出したのも効を奏したのか、97年、無事にSCEの制作部に入ることができた。

「最初に配属されたのは、当時PlayStation®で開発中だったRPG『レジェンド オブ ドラグーン』のチームでした。僕はつくりたいゲームが山ほどあったので、できればすぐにオリジナルの企画に挑戦したかったんですが、新入社員の身ではさすがにそうもいかない(苦笑)。まずは現場で勉強だと、『レジェンド オブ ドラグーン』のマッププランナーとして約3年、そのあと『ICO』チームで同じくマッププランニングを約2年ほど担当しました」

 マッププランニングとは、あまり聞きなれない言葉だが、具体的にはどういう作業を?

「地図づくり、のようなものですね。僕はいくつかの街やダンジョンを担当したんですが、大雑把にいうと、そこで起こるイベントに合わせて店の配置だとか、広場の大きさだとかを決めて、街を設計する仕事です。ディレクターが書いたイベントの大筋を見て、そこで戦闘があるようならその場所を広めにつくるなど、イベントとの関連性に合わせて街の設計図のラフを描きます。それをデザイナーに渡し、道の幅とか建物の大きさとかの指示をしながら、出来上がりを待ちます。マップはイベントと直接関わるものですし、ユーザーにも身近なものなので、RPGの要素としては非常に重要。重要なものだけに、ちゃんと考えないとユーザーにストレスを与えてしまう難しい仕事ですよね。『レジェンド オブ ドラグーン』は最初の仕事だったので、僕も高いレベルで仕事ができていたかというと……(苦笑)。反省点はさすがに多かった。でも、『レジェンド オブ ドラグーン』のチームは、新人の僕にも比較的自由に仕事をさせてくれました。街中に自分が行きたいと思う場所や、遊び心のあるオブジェクトを結構入れられたのが、うれしかったですね」

 というところで、ここで『レジェンド オブ ドラグーン』をお持ちの方のために、河野さんが実際に手がけた街を紹介してもらおう。

「僕はベネチアの街が大好きなので、水の上を船で移動する街をつくりました。ファーニという街に入ると、道具屋や宿屋にもすべて船で入っていくんです。酒場も1階が水場になっていて、2階のカウンターからお酒を飲みながら釣りができるんですよ(笑)。気づいた人だけ遊んでもらえばいいオブジェクトもいろいろ。最初に出てくるお城(ベールの城)には塔が隣接していて、床にハシゴが掛かっているという。でも、その塔には螺旋の滑り台もついていて、高いところからスーッと降りてこれるようになってるんです。なぜ、そんなものをつけたかというと、将来僕が、自分の家に滑り台をつけたかったから(笑)。ほかにも、どこかの街の本屋さんをわざと縦長につくりましたね。ふつうはそこを上までハシゴで移動するんですが、よく見ると、真ん中にポールがある。そこに掴まると、下りが便利に。それも、自分の家に欲しいと思って、ゲームで実現してみたオブジェクトのひとつでした(笑)」

 マップデザインと同時に、河野さんは『レジェンド オブ ドラグーン』内のポケットステーション用ミニゲームのゲームデザインも担当。これが、ゲームデザイナーとしての初作品となった。その開発が終わり、河野さんは続いてPS2タイトルの現場にマッププランナーとして配属される。タイトルは『ICO』。

「『ICO』チームでも、『レジェンド オブ ドラグーン』とほぼ同じ内容の仕事をしていたんですが、作品のテイストとして“カッコいい絵”が求められていたし、僕自身もそういう方向の画づくりに興味があって、マップをつくる際にもゲーム中の構図や光の当たり方などを意識しながら作業をしていきました。わざと岩壁に穴を開けて、逆光が入るようにマップをつくったり(笑)。ほかにも、『レジェンド オブ ドラグーン』と同じように、自分が担当したマップには、自分好みのオブジェクトをたくさん配置してあります。『ICO』のときは滝でした。城の地下などは、特に僕の好みが反映されています」

『ICO』は、最初に河野さんが参加した『レジェンド オブ ドラグーン』とは、テイストもゲームづくりの方法論も異なる作品だった。『レジェンド オブ ドラグーン』のとき、ゲームクリエイターとして素人同然だった河野さんは、『ICO』の現場でゲームづくりの新しい意識に目覚めた。

「『ICO』では、ディレクターの上田(文人)さんのゲームへのこだわりを間近に感じて、すごく勉強になりました。上田さんは、ご自分も3DCGソフトを使える方なので、イメージしている映像を、まず3DCGソフトを使ってムービーにしてみるんですね。それを、リアルタイムでゲームとして再現するにはどうしたらいいか、ということを考え、ゲームに実装していく。ふつうは、そんな作業はわざわざしない。その作業を初めて見て、“これはすごく大変な作業だけど、このやり方もアリだ”と気づかせられたんです。それと同時に、せっかくゲームをつくるなら、ほかの人がやらない表現をやらなきゃ、ということも」

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ついにオリジナル企画の制作を!〜ある挫折

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 スタンダートな方法論で制作された『レジェンド オブ ドラグーン』、これまでにない斬新な手法で制作された『ICO』。両極端な観点からゲーム開発に携わった河野さんは、そこで得た経験をもとに、今度は自分自身のゲームデザインを作品にしようと思い立つ。

「実は、『レジェンド オブ ドラグーン』をやっている最中に、一度、仲のいいプログラマーとふたりで、僕の企画を形にしようと内々で進めて、PlayStation®でプロトタイプをつくったことがあったんです。今思い出しても、つくりは荒いですがインパクトのある作品でした。キャラクターの上半身を自由に動かせて、踊って歌って、軍団を増やしながら練り歩くという。言葉で説明してもよくわからないでしょうが、けっこう、オシャレなソフトだったんですよ(笑)。でも、そのうち本職が忙しくなり、お蔵入りに……。『ICO』のあとに、思い出したのがその企画でした。この機会に完成させたいと思ったんです」

 その河野さんの企画は、社内でも好感触を得てプロジェクトがスタート……するはずだったが?

「社内の事情もいろいろ重なって、頓挫したんです。でも、僕は諦めきれませんでした。やっと、長い間つくりたいと願っていたゲームをつくれるチャンスでしたから。そこで僕は、当時の上司に、“イメージムービーをつくって企画をプレゼンしたいので、1ヶ月、時間をください”と直訴したんです。1ヶ月で『LightWave 3D』(3DCGソフト)の使い方を覚えて、ひとりでデモムービーをつくるつもりでした。今までCGムービーなんてつくったこともないのに、なぜかできる気がしたんですよ(笑)」

 そこからの河野さんは、小学生・中学生時代にコンピュータやロボットづくりに夢中になったときのように、3DCGムービーづくりに明け暮れた。

「とにかく時間がないので、キャラクターのデザインや絵コンテを毎日の通勤電車の中でも考えて。いいデザインが出来たらその日のうちにモデリングして骨組み組んでテクスチャまで作って、というのを毎日続けました。そして、もう一度、上司に掛け合って、ムービーの提出を半月延ばしてもらって。最後の2週間はまさに地獄でしたね。最後は会社に行くと時間が足りなかったので有給を取りました。どのキャラクターをモデリングし、どんなモーションをつけ、どんなステージをつくるかを洗い出し、それぞれの作業を一律1時間で進行させるという“ひとりスケジュール”を組みました(笑)。朝の3時から7時半までの4時間半の睡眠時間と、ご飯を食べる時間だけは確保して、それ以外はすべて作業に充てたんです」

 スケジュールを組むだけなら誰でもできるが、河野さんは実際に、目覚まし時計を1時間ごとにセットしながら、そのスケジュールを実行した。話を聞くぶんには、さぞかし過酷な日々かと思われるが。

「自分が考えたキャラクターが3Dで動くなんて体験は初めてだったので、辛いと思うよりも、楽しくてしょうがありませんでしたね(笑)。最後は、“ここまで自分のスキルが上げられたなら、プレゼンに通らなくてもいいや”と思うまで。結局、そのムービーは社内のプレゼンには通らなかったんですが、自分のスキルに自信が持てるようになりました。それからですね。表現したいアイデアが思いついたら、まず自分でムービーをつくるようになりました」

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『LocoRoco』プロジェクトの紆余曲折〜そしてこれから

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 一生懸命に出来る限りの努力をしたものの、河野さんが長年温めた企画は製品化への道をたどることはなかった。制作中は「プレゼンに通らなくてもいい」と思った河野さんではあったが、現実に戻るとさすがに気持ちは落ち込み、一時は会社を辞めようかという気持ちもうっすら浮かんだ。だが、よく面倒を見てくれていた会社の先輩、同期の仲間たちからの励ましの言葉を聞き、河野さんは気持ちを切り替えることができた。

「それから、しばらく実作業の現場を離れて、違う仕事をしていたんです。でも、ふと気がついたときに“それでいいのか?”という気持ちが浮かんで、ちょっと焦りを感じたんですよね。同期の連中は、それぞれのチームで新作に取り掛かっていたのに、僕は宙ぶらりんの状態でしたから。そんなとき、上司と一緒に電車で帰る日があって、気持ちを打ち明けたんですね。そうしたら、“今週は、会社に来なくてもいい。ゲームのことを考えずに、気分転換しろ”と言ってくれたんです。その言葉を聞いて、ふっと肩の力が抜けました。そんなに頑張り続けなくていいんだって。そこからです。僕が立ち直ったのは」

 新たな意欲がふつふつと沸いてきた河野さんは、仕事にも積極的に取り組み出す。自分の企画を洗い直し、『サルアイトーイ 大騒ぎ!ウッキウキゲームてんこもりっ!!』のアシスタントプロデューサーに名乗りを上げた。そして……!!

「納期が厳しかった『サルアイトーイ』の開発がピークだった頃、電車の中でオリジナルゲームの企画が思いついたんです。それが『LocoRoco』。そこから、プライベートな時間で『LocoRoco』の企画を練り込んでいきました。ただ、いつ会社に企画を提出したらいいのか、タイミングが難しい時期だったんです。そこで、『サルアイトーイ』の作業がすべて終了してから、いつ社内のプレゼンにかけてもいいように、ひとりでこっそりデモをつくってしまおうと考えたんです。そんなとき、タイミングよく、社内で手の空いているプログラマーを見つけたんですね。しかも、その人は物理計算が得意だという。ロコロコの動きを表現するには、ぴったりの人だったんです。そして、思い切って彼に『LocoRoco』の企画を話してみたら、デモづくりを手伝ってくれるといい返事をもらって。そこでお願いしたら、たった1〜2週間で、物理計算デモをつくってくれました」

 こうして、偶然にも力強い味方を得た河野さんは、早急に『LocoRoco』の企画を練り込んでいった。さらにタイミングよく、社内の制作チームでも、PSP®ソフト開発を積極的に推進する気運が盛り上がり出した。「ここがチャンス!」と思った河野さんは、上司にさっそく、『LocoRoco』の企画を提出した。

「直属の上司からは、とりあえずそれを進めてみろという返事をもらい、それから約2ヵ月くらいで、ほかのプロデューサー陣の前でプレゼンができるところまで話が進んでいきました。その間に、『レジェンド オブ ドラグーン』時代から仲の良かったデザイナーにも協力してもらって、企画を仕上げていったんです。で、実際のプレゼンになったんですが……まだそこではラフ画を見せながら、ゲームのイメージを口頭で説明するだけだったので、ロコロコというAIを搭載したキャラクターと物理計算によるシステムが、ゲーム性としてどう上手くかみ合うのかがわかり辛かったんでしょうね。1回目NGで、リベンジした2回目のプレゼンでも、あまりいい反応は返ってきませんでした(苦笑)」

 そんな状況に、このままではいけないと発奮した河野さんは、さらに上司に直訴。実際に、『LocoRoco』が動いているところを見てもらわなければ、この企画の面白さは伝わらないと、PSP®のツール上でデモをつくる作業に取り組み出した。

「デモ制作に掛けられる時間は1ヵ月。そこからは必死でした。仮のステージをつくり、ギミックを配置して、地面を傾けるとロコロコが移動し、地面を弾くと飛び上がり、トゲに触ると分裂するシステムを入れたデモをつくりました。時間の都合で、肝心のロコロコのポヨヨンとしたやわらかさを表現するところまでは手がまわらなかったのですが、ゲームの概略をわかってもらえる内容で。それを再度、見てもらったら、プレゼンの席にいた全員の雰囲気が、前回とはガラッと変わったんです(笑)」

“百聞は一見にしかず”というのは、まさにこのこと。斬新なゲーム性と、独特の世界観を社内に納得させるまで時間はかなりかかったが、そこからはトントン拍子に話が進んだ。

「正式に開発のGOサインをもらい、本格的な試作にやっと取り組める環境ができたんです。試作は人も増えて3ヶ月で制作しました。」

 このとき河野さんが考えていた『LocoRoco』のプロジェクト構想は、“少人数で時間をかけない、アイデア勝負のゲームづくり”。『LocoRoco』ならそれが可能だと考えた。

「それでも、会社のサポート体制に基づいて当初考えていたより人数はふくらみましたが、今のゲーム開発現場の状況を考えると、まだまだ少ない人数ですみました。時間とお金を掛けてじっくりとつくり込む大作ももちろん必要ですが、僕は短い時間で面白いアイデアをたくさん形にしていくことも、この業界には必要なことだと思ったんです。確かに、少人数で新しいことにチャレンジするゲームづくりには苦労しました。でも、発売後にはみなさんにも高く評価してもらえて、頑張った甲斐があったとホッとしましたね」

 河野さんが子供の頃から抱いていたポリシー。それは「自分のつくったもので人を楽しませたい、驚かせたい」という純粋な気持ちだ。小学生の頃、友達に自作のゲームを遊んでもらった時代から、一環して河野さんは、自分が楽しいと思ったものを“誰か”と共有し、“誰か”を楽しませるための手間と、粘り強い努力を惜しまなかった。

「『LocoRoco』をつくっているときも心強かったのは、同期のみんなの協力でしたね。チームで一緒に仕事をした仲間はもちろん、営業部や宣伝部など、ほかの部署の同期の人たちが、みんな『LocoRoco』を応援してくれた。実は、『LocoRoco』というタイトルも、同期の友達が締め切りギリギリに考えてくれたものなんです。このゲームを企画したのは僕ですが、作品を仕上げることができたのは、けっして僕ひとりの力じゃない。そういう基本的なことが、『LocoRoco』を通じて再確認できました」

 では、その河野さんが、次にみんなを驚かせてくれるのは、いったいどんなゲームだろうか。

「次ですか? 何か、海外のゲームショウではちょっとした発表もされているようなんですが……『LocoRoco』の続編となるタイトルは、企画が徐々に進んでいます。それに限らず、『LocoRoco』の開発中から、ほかの企画もたくさん思い浮かんでいて、もう僕の中ではイメージが見えてきています。今、市場ではカジュアルなタイトルが人気ですが、もっとゲーム性を高めた新しい内容の作品を実現できればと。例えば、やり込み要素は維持したまま、カジュアルでセンスのいいアクションRPGだとか。昔、僕が子供時代に夢中になったゲームは、けして大作ではなかったですが、面白いアイデアがたくさん詰め込まれていました。そういう要素を、現在の時代にマッチする形で実現できたら、少人数で面白いタイトルが開発可能じゃないかと思うんです。それぞれのアイデアはまだ準備にも取り掛かれていない状況ではありますけど、タイミングを見ながら進めていきたいですね」

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2007年4月 後藤能孝氏
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