そして、大学卒業が近づく。もちろん、横尾さんの就職先の第1志望はナムコ。ほかにも2社ほどのゲームメーカーを受験したが、その2社には不合格。実に運よく、第1志望のナムコにデザイナーとして就職することができた。
「配属されたのは、当時のVS開発部。『鉄拳』などのアーケードの小型ビデオゲームをつくる部署でした。もともとアーケード志望で、エレメカの開発もやりたかったんですが、あっちは図面が描けないと無理といわれて、こっちに。同じアーケードでも、当時流行っていた大型筐体をつくる部署もあったんですが、3Dグラフィックは向いてないし、2Dのゴチャゴチャしたドット絵が描きたかったんですよ。でも、ちょうどナムコに入った頃が、ドット絵の終焉時期でした」
時代は、ゲームが2Dから3Dへと移り変わるとき。横尾さんが最初に手がけた仕事は、最後のドット絵アーケード世代、『アウトフォクシーズ』という1対1でキャラが戦うアクションゲームだった。
「念願のドット絵を担当したんですが、先輩も細かく作業を教えてくれるわけでもなかったので、自力でキャラを描くのにとても苦労しましたね。特に難しかったのが、女性キャラクターの足に映る影の回りこみ。ドットですから、徐々にグラデーションをつけて表現しなければならないんですよね。当時はフォトショップなどの便利なグラフィックツールもまだ会社に導入されてなくて、全部手作業だったんです。だから、何か参考にできるものはないかと一生懸命探して……やっと見つけたのがエロビデオ(笑)。モザイクがドットなので、肌にかかる感じが、すごく参考になったんですよ。友達からビデオを借りて、モザイクのシーンだけ観て真剣に勉強しました」
その後は、『ダンシングアイ』のステージ&キャラクター、『鉄拳3』のシャオユウのデザインなど有名どころのアーケードゲームの開発チームで、横尾さんは忙しい日々を送った。
「特に『鉄拳3』はスケジュールもタイトで、非常に疲れてしまって(苦笑)。仕事が忙しいのはありがたいことなんですけど、ナムコに入った最終目標は、自分のキャラクターでゲームをつくることですから、ちょっとストレスも溜まりましたね。そのぶん、自宅で自由な創作活動をするようになりました。ちょうどインターネットで面白いコミュニティができつつある時代でもあり、自宅のパソコンで何かをすることがラクになり始めてもいたし。そこで、『ポストペット』のオリジナルおやつや部屋のプラグインをつくってネットで公開していたら、開発者の八谷和彦さんからメールをいただいてオフィシャルのプラグインをつくる仕事を受けました。そのほかにも、3DCGキャラクターコンテストに応募して賞をもらったり、自分なりの絵づくりにも一生懸命でしたね」
そんな生活を過ごすうちに、'99年、横尾さんに重大な転機が訪れる。彼女の代表作となる『太鼓の達人』プロジェクトに参加することになったのだ。
「といっても、『太鼓の達人』チームに入ったのは、全くの偶然だったんです。『鉄拳3』のあと、いくつかのアーケードタイトルのチームに配属されたんですが、どれも開発が途中で凍結してしまって……。『太鼓の達人』がスタートする直前は、私の処遇が宙ぶらりんになっていた時期だったんですよね。で、理由は忘れましたけど会社を休んだ日があって、次に出社したら『太鼓の達人』チームに配属されていたんです(笑)。私の嗜好や雰囲気的に向いていると思われたんでしょうね」
開発前は、ナムコ社内でもここまで大ヒットするとは予想されていなかったという『太鼓の達人』。横尾さんが、偶然関わることになったこの作品は、キャラクターも企画段階と現在とでは、ずいぶん違っていたという。
「初めは、キャラクターもハッピを着た女の子で、今とはビジュアルのテイストも違っていました。チームメンバーとの雑談中盛り上がったラクガキ"オロ星人"とインターフェイスアイコンをミックスし、5分ぐらいで作り上げた生き物を、当初「演奏ゲーム」のほかに別モードで入れていた「ミニゲーム」のキャラクターとして勝手に盛り込んだら、みんなに気に入っていただいて。それが「和田どん」誕生の瞬間です。1Pが赤なら2Pは青だろうという事で単に色違いにした瞬間「和田かつ」も誕生しました。名前は開発の便宜上咄嗟につけたものがそのまま採用された形です。得体の知れない雰囲気がよかったんでしょうね。あとキャッチーな色合いや由来がわかる分かりやすい見た目が良かったのかもしれません。それまでは、どんなキャラがいいのかを模索していたんですけど、“和田どん”がハマってからは、どんどんほかのキャラクターが浮かんでくるようになりました」
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