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ないものは自分でつくる! 人がやらないことを面白い作品として残したい
 桐山 佳子

個性的な作品をつくり出す注目のゲームクリエイターに“あなたができるまで”を訊くロングインタビュー企画「THE EARLY DAYS」。今月のゲストは、PS2で話題の『のだめカンタービレ』ほか、キッズ〜女性をターゲットに遊び心あふれる作品を手がけているバンプレストの開発プロデューサー・桐山佳子さんだ。幼い頃からピアノに親しみ、建築家を目指していた桐山さんが、ゲーム業界に足を踏み入れのは、ほんの偶然からだった。それまでにないジャンル、新たな作品づくりを目指す桐山さんが、歩んできた道のりとは?

取材・文/阿部美香(ライター)

転校を繰り返していた小学生時代

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 PS2『のだめカンタービレ』のプロデューサーとして注目を集める女性クリエイター・桐山佳子さんが生まれたのは、広島県・広島市。桐山さんの子供時代のエピソードといえば、まず小学校の記憶がよみがえる。幼稚園までを広島で過ごした彼女は、その後、父親の転勤について、全国各地を2年周期で飛びまわる忙しい生活を送ったのだという。

「建築会社で海洋開発のプロジェクトを担当していた父が転勤族だったので、子供の頃はしょっちゅう引っ越しをしてました。生まれは広島市なんですけど、幼稚園を卒園したあと、すぐに札幌に引っ越しまして……そのあとも小学校だけで2年おきに3つ転校しましたね。小1〜小2までは札幌に、小3〜小4までは横浜に、小5〜小6は今の実家がある千葉県にいました。その後は、父はずっと単身赴任になっちゃいましたけど(笑)」

 友達との触れ合いが、いちばんの思い出となる小学生時代。そんな時期に転校を繰り返していたというのは、子供にとっても苦労の多い話だ。

「だから、小さい頃から、できあがった組織に自分を売り込むノウハウが身についていたんですよね(笑)。最初は、どこの学校でも軽くいじめられるんですよ。話す言葉がちょっと違うとかで。でも、転校生は人見知りしてちゃやっていけないので(笑)、そのうちにだんだん仲良くなっていって……なじんだ頃にはまた転校と。だから私は、子供時代から知らない人と仲良くしたり、おしゃべりをしたりすることには全く抵抗なく育ちましたね。ただ、転校生って、さびしいですよね。卒業した学校のアルバムには残りますけど、途中の学校だとなかなか思い出してもらえないし、同窓会も連絡の取りようがないし……」

 ところで、桐山さんの家庭はどんな雰囲気だったのだろうか。

「全般的に、習い事が好きな一家でした。いちばん長くやっていたのはピアノ。3歳から18歳まで。習いだしたキッカケは母ですね。母が、ピアノを弾ける人に憧れていたので、兄も私も自然に習わされていました。だから、物心がついたら、毎日ピアノの前に座っていました。私にとってピアノは日常でしたから、短調の曲は嫌いだから弾きたくないとか(笑)、レッスンをやりたくないと思うときはありましたけど、自分から辞めようとか、いざとなれば辞めてやるとか、そういう考えすら全く思い浮かびませんでした。なので、小学生くらいのときは、自分は将来ピアノの先生になるんだって、なんとなく思いこんでいましたね」

 ピアノのほかにも、習字、水泳、塾と、桐山さんは多くの習い事にいそしんだ。特に、公文式や日能研などの塾には母親が熱心だったとか。

「勉強には厳しかったですね。家でマンガを読むのも禁止されてたくらいです。唯一、許されていたのが『ドラえもん』(笑)。ほかのマンガは、見つかったら捨てられてしまうので、習い事の合間に友達の家に行って、『りぼん』や『なかよし』をこっそり読んでました」

 当然、当時流行っていたファミコンも禁止。そんな桐山さんの心を慰めてくれたのが、転校先で仲良くなった友達との遊びだった。

「3つの小学校の中では、横浜時代がいちばん楽しかったですね。さっきお話したように、うちはマンガ禁止だったくらい、子供の遊びに厳しい家だったので、当時流行ってたテレビゲームなんかもってのほか。アホになるからって、ゲームは買ってもらえませんでした。だけど横浜の家のときは、同じクラスに電器屋の娘さんがいて、彼女の家にはファミコンカセットが全種類そろってたんです! タンスの引き出し2段ぶんが全部ファミカセという素敵なお家だったので、しょっちゅう遊びに行って、『ファミリートレーナー』とか『たけしの挑戦状』とか『グーニーズ』とか、ファミコンを遊ばせてもらいました」

 厳しく禁止されていたマンガにまつわるこんな思い出もある。

「横浜時代の友達とは、交換マンガなんて遊びもしてました。友達5人くらいと、“てるてるぼうず”のキャラをつくってました。それが高じて、千葉に引っ越してからも友達とマンガを描くという遊びは続けてました。今度のキャラクターはクマ。『森のくまさん』をパロって、『くまのもりさん』っていうギャグマンガなんですけど(苦笑)。ひとりで1ページお話を描いて、次の人にノートをまわして連作していくという。クマがカレーを食べに行くとか、ほんと、どーでもいい話(笑)。マンガを読んじゃダメなら、自分で描いてやる! と思って。その頃から、ないものは自分でつくる、という意識はずっとありました」

 遊びを満喫できるのは、主に友達の家。そんな小学校時代の桐山さんだが、もちろん家では母親の言いつけを守っておとなしく勉強に励んでいた。

「そうしているうちに、中学年から高学年は関東にいましたから、やっぱり中学受験をしろという話になって、塾のほうもレベルの高いところに行かされて頑張りましたよ。でも、肝心の中学の面接の日に水疱瘡にかかってしまって、結局は公立の中学に進むことになったんです。必死に勉強してたのに、すっかり無駄になっちゃいました(笑)」

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“勉強なんか止めてやる!”と誓った中学時代

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 そんな小学生時代の反動か、公立中学に進んだ桐山さんは、うってかわった生活を送るようになる。というのは?

「中学からは千葉に落ち着きまして、ノンキな学生時代を送ってました。ただ、小学校のときにいろいろ勉強させられた反動で、全く勉強はしなくなりましたけどね。母と約束したんですよ。小学生のときに、“こんなに勉強させられて、いったいいつまでやればいいの?”と聞いたら、“中学に入ったら止めていい”といわれてたので、ピアノと習字の習い事だけは続けましたが、中学に入った途端に“よっしゃー、勉強なんか止めてやる!”と宣言したんです(笑)」

 そこで、好きな楽しみを満喫しようと思った桐山さんは、小学生時代から、絵を描くのが好きだったこともあり、まずは美術部に入部する。

「真面目に絵を勉強するというよりも……相変わらず、くだらない絵ばかり描いていました。よく、メーカーから試供品の絵の具や画用紙が部に提供されるんですが、それを無駄に使ってピカソごっこをしていたり。500枚の紙の束に、ひたすらいたずら描きをしてみるとか。かなりの画材の無駄遣い(笑)。作品らしい作品を描いた覚えがないですね。部活に限らず、人を笑わせたり、ビックリさせるのが大好きだったので、中学時代は、そのためだけに、授業中も友達相手にくだらないことばかりやってました」

 例えば、手紙。例えば、折り鶴。……いったいどんなふうに?

「授業中って、友達同士で手紙をまわしたりして遊ぶじゃないですか。そのとき、ふつうにノートの切れ端や便箋を使うんじゃなくて、1ミリの方眼用紙のひとマス、ひとマスに文字を書いてみたり、3ミリ四方の極小の紙を用意してチマチマと折り鶴をつくってみたり(笑)。折り鶴は、今でも頑張ればできるんじゃないかなぁ。まったく身にならない遊びを、友達を驚かせたいためだけにやってたんですよ。このノリは、高校時代までずっと続くんですよね。授業中、マジメに勉強している友達を笑わせて、その子が先生に怒られるところをクスクス見るのが楽しくて」

 そんな桐山さんを慕う友達からは、いつしか「何か面白い話してよー」とねだられるほど、クラスのお笑い担当に。桐山さんにとって、笑いにあふれた学校は通うのが楽しくて仕方がない場所だった。

「中学1〜2年くらいだと、まだ高校受験も関係ないし、とにかく学校に行くのが楽しくてしょうがなかったです。ふつうは、授業も面倒だし、早く休みがこないかなぁと思うんでしょうが、夏休みなんかいらない! とまで思ってました。みんなと楽しく遊ぶのが好きなんですよね。習い事で長続きしたのがピアノや習字だったり、部活が美術部だったりしたのは、自分の世界で完結するものだから。人と争ったり、競争することが嫌いなんです」

 争いごとが嫌いという桐山さんの性格は、テレビゲームを遊ぶ場合でも?

「『桃太郎電鉄』とか『いただきストリート』が大好きで、よく友達と一緒に遊んでましたけど……『桃鉄』も『いたスト』は基本的には談合ですね(笑)。遊ぶときは必ずNPC(CPUキャラ)をまぜて、友達を出し抜いたり、攻撃したりは絶対にしない。ボンビーをなすりつける相手は必ずNPCにすると。アクションゲームでは、『スーパーチャイニーズ2』にハマりました。ほとんどのアクションゲームが2Pだと対戦型なんですけど、『スーチャイ』は協力プレイができたからです。何10回クリアしたかわかりませんよ」

 桐山さんが、念願のファミコンを手にしたのは小6のときだったりという。それまで親にねだっても絶対に買ってはもらえなかったが、「欲しいモノは何でも言いなさい」というやさしいお祖父さんが、ファミコンと『ドラゴンクエスト3』を買ってくれた。

「そうですね。最初に自分のファミコンで遊んだのが、『ドラクエ3』でしたね。でも、気がついたら、私より先に父親が、勇者にマーボ、僧侶にトーフって名前をつけてゲームを始めちゃって(笑)。そのあとからは、父親や兄のほうがゲームの購入には積極的で。高校時代に発売になったPlayStation®も兄がさっそく買ってきてました。ジャンルとしては、RPGも好きなんですが、始めてもなぜかクリアするまでいかないんですよ。唯一、自力でクリアしたのは大好きだった『MOTHER』シリーズくらいかも。もともと、ゲームをひとりでプレイするのも好きじゃないし、対戦も好きじゃない。どんなゲームでも、誰かと一緒に遊ぶのがいいんです。だから、RPGも人の後ろで見ているほうが好きなんですよね。今でも、テレビで『ゲームセンターCX』観るのが大好き(笑)。家でゲームをするときは、もっぱら兄がクリアするのを一緒に見て、喜んでました。」

 また、ゲームだけではなくマンガやアニメにもより興味を持つようになった。RPGを一緒に遊んでいたお兄さんがアニメ好きだった影響も大きかったようだ。

「兄が『ニュータイプ』を愛読していたので、アニメ情報もそれなりに。好きだったのは『らんま1/2』『ふしぎの海のナディア』『新世紀GPX サイバーフォーミュラ』とか。マンガも、ちょうどその頃『週刊少年ジャンプ』が黄金期でしたから、『スラムダンク』『ドラゴンボール』とかが大好きで、毎週月曜日になるとクラスでまわし読みしてました。ジャンプマンガでは『幽★遊★白書』も大好き。でも、大人になって、まさか自分が『幽★遊★白書』のゲーム(PS2『幽★遊★白書 FOREVER』)をつくることになるとは思いもしませんでしたね(笑)。だから、あんまり女の子らしい趣味はなくて、クラスの子が夢中になっていたアイドルにも全く興味がありませんでした。アイドルっぽいもので好きになったのは、小学校時代のTMネットワークくらいですかね。でも……あれも、結局は『逆シャア』(劇場版『機動戦士 逆襲のシャア』。主題歌をTM Networkが担当)のせいだし……(苦笑)」

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