作品が人の想像を超えたとき、そこに“面白さ”と“感動”が生まれると思うんです
 鯉沼 久史

個性的な作品をつくり出す注目のゲームクリエイターに“あなたができるまで”を訊くロングインタビュー企画「THE EARLY DAYS」。8月のゲストは、コーエー初のコラボレーション作品でバンダイナムコゲームスとタッグを組んだ、PS3®『ガンダム無双』のチーフプロデューサー・鯉沼久史さんだ。小学生時代、駄菓子屋の店先でテレビゲームに出会い、学生時代をゲームひと筋で過ごしてきた彼は、「自分でゲームをつくってみたい」という夢を脇目もふらず一直線に叶えた。趣味も実益も、全てがゲームに繋がっていった鯉沼さんが、その半生を大いに語る!

取材・文/阿部美香(ライター)

兄の後ろについてゲームセンター通いを続けた小学生時代

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 『戦国無双』シリーズなど、コーエーを代表する3Dタイトルで知られる開発チーム“ωフォース”の作品群を多数手がけている鯉沼さんが生まれたのは、千葉県千葉市。だが、父親が銀行員だった関係で転勤が多く、3歳で茨城県勝田市(現・ひたちなか市)、小学校2年生から4年生までは千葉県松戸市、小学校5年生からは栃木県栃木市へと引っ越しを繰り返していた。そんな鯉沼さんが、子供時代の記憶を問われて真っ先に話し出したのは、やはりゲームの思い出だ。

「私がゲームをし始めたのは、松戸で暮らしていた小学校2年生の頃。場所は、近所の駄菓子屋でした。駄菓子屋といっても、駄菓子は少ししか置いてなくて、ほとんどゲームセンター化してましたね(笑)。小2でゲームセンター通いとはませた子供なんですが(笑)、3歳上の兄がいて、その駄菓子屋は、兄の友達の家が経営してたんですよ。だから、兄の後ろについていって、チョコチョコっと一緒に遊ばせてもらってました。印象に残っているのは『ヘッドオン』。クルマを操作してドットを消していくゲームでしたね。ほかには『ドンキーコング』とか……ターザンみたいな人がジャングルの川の中を泳いでいく『スイマー』が面白かったのを覚えてますね」

 ゲームが好きになったのは、兄の影響だったと語る鯉沼さんは、同年代の人たちに比べても、ゲーム歴の長さでは負けない自信があるという。その駄菓子屋をスタートに、鯉沼さんは「私の半生で、ゲームをしなかった時代はないですね」と笑いながら。ところで、小学校ではどんな生活を?

「そうですね……学校ではさすがに、ゲーム以外のこともしていましたよ(笑)。特に一生懸命だったのは楽器ですね。音楽が好きで、本当はピアノを弾きたかったんですが、住んでいたのが団地だったのでピアノは買ってもらえなかったんですよ。そこで、学校で楽器ができないかと思い、小3から小4までブラスバンド部に入ってチューバを吹いてました。チューバをやることになったのは、ブラバンには男の子がほとんどいなくて、私の体格がよかったからでしょうね。ブラスバンドというと文化系のイメージですが、中身はけっこう体育会系なんですよね。毎日、朝練と称して腹筋運動や基礎体力づくりをビリーのように一生懸命やらされて(笑)、放課後は演奏の練習をして。先生が厳しかったですから、県の大会では金賞をもらうくらい活動は熱心でした」

 ブラスバンド部のほかにも?

「毎週末、日曜日は町内会の少年野球の練習をしてましたね。野球は小3から小6まで、栃木に引っ越してからも続けていました。転校したときにも、前の街では野球をやってたと言ったら誘われましてね。試合に出られるようになったのは5年生からで、ポジションは外野で7番打者。好きなプロ野球チームは巨人。まぁ、チームが好きというよりも、桑田さんとか原さんとか中畑さんとか……生え抜きの選手が好きだったんですよ。今の巨人は移籍選手がすっかり増えてしまい、前ほど野球は観なくなりましたね」

 ここで、鯉沼さんの記憶は、ふたたびゲームに戻る。それは小学校6年生のとき。鯉沼家にファミコンがやってきた思い出だ。

「子供の頃の趣味といっても……ほとんどがゲームの記憶ばかりなので、趣味らしい趣味ってなかったんですよね。野球やったり、川で魚釣りをしたり、ブラスバンドをやったり、わりと活動的だったのは小学校の頃だけで(苦笑)。小学校高学年からはゲーム一直線なんですよ。で、ファミコンが発売されたのは、私が小5の秋。なかなか手に入らなくて、やっと買えたのは小6になってから。とにかく『マリオブラザーズ』がやりたくてね。それまでゲームセンターでしか遊べなかったゲームが“テレビでできるんだー!”と、兄弟で大興奮ですよ(笑)。ほかにも、『アイスクライマー』『ドンキーコング』『バルーンファイト』とか、アーケードで遊んでいたソフトに夢中になってました」

『戦国無双』

『戦国無双』

『戦国無双2』

『戦国無双2』

『真・三國無双2 猛将伝』

『真・三國無双2 猛将伝』

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入学してすぐの入院生活がその後を変えた中学時代

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 そして中学時代。ここで、ひとつの小さな転機が鯉沼さんを襲った。入学してすぐの6月後半。鯉沼さんは、ある事故のため約1ヶ月半におよぶ入院生活を送ることになる。

「体育の時間に、高跳びの授業があったんですね。その準備をしているときに、バーを使って遊んでいて、頭からマットに垂直に落っこちちゃったんです。パイルドライバー状態ですね。さすがに救急車を呼ぶほどの事故ではなかったんですが、その後、首が痛くて痛くて、病院に行ったら首の骨がずれてたんですよ。先生がレントゲンを見ながら“もうちょっとずれてたら死んでたねぇ”なんて言ってましたね(笑)。それを治すといっても、石膏で首を固めて安静にしているしかないということで、40日間入院しました。それからですね、運動をほとんどしなくなったのは。首以外に悪いところはないんですが、動いちゃいけないと言われて、毎日、病院のベッドでアイス食べてテレビ観て、1日中のんびりしてるわけですよ。体を動かさないって、こんなにラクなんだと、味をしめちゃったんですね(笑)」

 その入院を機会に、鯉沼さんは、それまで以上にゲームにハマっていく。

「そこで残されたのが、ゲームしかなかったんです……なんて言うと悲しい人生みたいですけど(笑)。それがゲームじゃなく、アニメでもよかったんじゃないかと思われるかも知れないんですが……実はうちは、テレビを長く観てると怒られる家だったんですよ。相変わらず転勤の多かった父は単身赴任をしてましたから、母は子供を厳しく育てようと思ったんでしょうね。だから、リアルタイムにアニメや特撮番組を観る機会がなかなかなくて。唯一、ちゃんと観られるのが、平日の夕方から夜にかけての時間帯。夜にアニメを観ると怒られるんですが、母親がパートに出ていたので、その時間だけは『ガンダム』の再放送やおニャン子クラブが観られると(笑)。当然、テレビゲームもダメはダメなんですが、それも親の目を盗んでこっそり見つからないように遊んでました」

 さらに、中学時代に興味を持ったのが、現在の仕事につながるプログラミングだった。

「ちょうど、中学2年くらいの時からPCのプログラムのほうにも興味を持ちだして、“ベーマガ”(マイコンBASICマガジン)などのコンピュータ雑誌を買うようになったんです。自分はPCを持ってはいなかったんですけど、友達の家に遊びに行っていじらせてもらってました。当時のマシンといえば、FM-7(富士通)とかPC-8001(日本電気/現NEC)でしたかね。珍しいところでは、ぴゅう太(トミー/現タカラトミー)なんかも。さすがに、人の家で自作のプログラムを組むまではしませんでしたが、この頃から、いつかお金を貯めて自分のPCを持ちたいと思うようになりました。当時はマシン自体が高級品で、中古でも30〜40万円くらいしましたからね」

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