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作品が人の想像を超えたとき、そこに“面白さ”と“感動”が生まれると思うんです
 鯉沼 久史

天文学部員は仮の姿? ゲームに明け暮れた高校時代

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 そうして、コンピュータとの出会いを果たした鯉沼さんは高校に進学。第1志望だった県立高校の受験には失敗し、少しの挫折を味わったものの、第2志望の國學院大學栃木高校に進み、さらにゲーム三昧の日々を過ごすことになる。

「ここで、コーエーに入社するキッカケに出会うんですよ。中学時代は帰宅部だったんですが、高校で何も部活をやらないというのも体裁が悪いんで(笑)、天文部に入部しました。

『三國志』

國學院栃木には、ほかの高校にはないほど立派な天体望遠鏡のドーム設備があって、天体のデータをシミュレートするために、当時としては珍しく部に専用のPCが置いてあったんです。しかも1学年上の先輩が、PC用にコーエーの『三國志』を学校に持ってきていたんです。もちろん初代の『三國志』です。8人までマルチプレイができるという。だから部員たちの大半は、部活と称して『三國志』を遊んでいたんです。まぁ、私も天文部に入ってからそれに気づいたというより……『三國志』がやりたかったから天文部を選んだというのが正しいんですけどね(笑)」

 とはいえ、『三國志』目当てで天文部に入部した鯉沼さんだけに、部員らしい活動もあまりせず、放課後のほとんどの時間はバイトと友人宅でのPCゲームに充てられていた。

「ヒマな時は、友達の家に入り浸ってPCゲームばかりやってました。うちの親にも、自分がお金を出すからPCを買いたいとは言ったんですが、“コンピュータ買っても、どうせゲームしかしないんでしょ”と、結局、PCを持つことができなかったんですよ。まぁ、親の言うことはほぼ当たってたんですけど(笑)」

 鯉沼さんが仲良くしていたPCユーザーの友人も、コーエーのシミュレーションゲームが好きだった。また、当時はアドベンチャーの全盛期。『琥珀色の遺言』(リバーヒルソフト)、『サラダの国のトマト姫』(ハドソン)、『ポートピア殺人事件』(エニックス/現スクウェア・エニックス)などの歴史に残る名作群が、鯉沼さんを魅了した。と同時に、小学生以来のアーケードゲーム熱も復活。そのキッカケは?

「高校1年の後半から、ショッピングセンターのゲームコーナーで、アルバイトを始めたのが大きかったですね。バイトしてる間は遊べないですけど、夕方5時から8時までの仕事だったので、バイトを始める前の30分くらいは自腹でゲームを遊んでました。当時、面白かったゲームといえば、『ドラゴンバスター』(ナムコ/現バンダイナムコゲームス)、『ぶたさん』(NMK)、『ゴールデンアックス』(セガ)、『魔界村』(カプコン)……。ナムコやカプコンのゲームが印象的でしたね。ナムコは特に、『源平討魔伝』『アサルト』『妖怪道中記』と名作がたくさんありました」

『源平討魔伝』

『アサルト』

『妖怪道中記』

©NBGI

 ところがこのバイト、鯉沼さんの話によれば、学校はもちろん、家にも内緒だったとか?

「校則がバイト禁止だったので、両親にも内緒でやってたんですよ。私は自転車通学をしていましたから、自宅と学校の中間点に建っていたそのショッピングセンターは、すごく通いやすかったんですよね。天文部に入っていたのも、バイトをごまかすにはちょうどよくて。夜遅めに家に戻っても、“今日は、星を観測してたから遅くなった”って言えば大丈夫。それに、天文部には泊まりがけで星を観測する合宿がありましたから、本当は1泊2日の合宿を、2泊3日あったことにして友達の家にゲームをやりにいったり。部活をいいことに、ずいぶん親を騙してました。いやー、便利ですよね、天文部っていうのは(笑)」

 母親に怒られないようにと、家ではほとんどゲームをしなくなっていた高校時代。「だからこの時代、私のコンシューマゲームの記憶はすっぽり抜け落ちてるんですよ」と鯉沼さんは言う。

「『ドラクエ』だったら、『III』〜『V』あたりですかね。その時代の家庭用ゲームは、ほぼ全くといっていいほど遊んでないんですよ。高校時代は本当にPCとアーケードゲームばかり。そして、本気でプログラミングの勉強をしたいとずっと思っていました。結局、高校時代は、自宅にPCを買う夢は叶わなかったんですが……」

 友達の家で触らせてもらった経験と、ずっとPC雑誌を読み続け、プログラミングに関する知識を十分に蓄えていた鯉沼さん。まもなく大学受験というときに、彼は当然、こう考えた。

「大学は、絶対にコンピュータの勉強ができるところに行こうと思いました。ただ問題は、当時はまだ今のように、どこの大学にもPCを触れる学部や学科があったわけじゃなかったということでした。時期的にも、紙テープをガチャガチャ吐き出すような昔の大型コンピュータから、今のいわゆるPCへと、情報科学の世界も世代が切り替わり始めていましたから。専門の私立大学じゃないと、なかなか設備が整っていなかったものですから、勉強を真面目にしていなかった自分の成績でも入れそうな(苦笑)、情報科学科のある東京電機大学に進学先を決めました」

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夢に向かって一直線に突き進んだ大学時代

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 中学時代から「いつかは自分でゲームをつくってみたい」とプログラミングに興味を持ち、高校時代、さらに思いが強まった鯉沼さん。東京電機大学に合格を決めた彼は、大学進学を機にひとり暮しを始め、念願のPC、X-68000(シャープ)も手に入れた。そして、ますます鯉沼さんは、ゲームの世界に浸り込んでいった。

「大学に入っても、バイト先はゲームセンターでした。今度はカラオケとゲームセンターが一緒になった店で、夕方の5時から夜中12時まではゲームセンター、12時過ぎてから朝5時まではカラオケのほうで働いたりして。月に150時間から200時間くらいはバイトしてたんじゃないですかね?(笑) ゲームのほうは店長よりも詳しかったですから、AMショーを見に行っては今度はどんなタイトルを店に入れようかアドバイスをしたり、店にはけっこう頼りにされてましたね。でも、2〜3年でバイトをやりすぎてしまい、さすがに勉強のほうが怪しくなってきたので、4年になってすぐにアルバイトは辞めました」

 では、大学での勉強は、いったいどういうことを?

「大学では、数学を中心に、プログラミング、AIなど情報科学全般の勉強をしていましたね。当時はまだ今ほど一般的ではなかった3Dグラフィックに関しても、基礎的な知識や理論は身につけられましたし、卒論ではネットワーク関連を研究しました。ただ、ゲーム制作に直接関係するプログラミングは、さすがに大学で教えてくれませんから、例えばC言語などは、自宅のX-68000でコツコツ独学してましたね」

 そして、大学では高度な情報処理の知識を身につけながらも、心はゲームクリエイター一直線だった鯉沼さんに、いよいよ就職活動を始めるシーズンがやってきた。

「大学の先生に、“自分の志望はゲーム会社なので、コンピュータ関連企業への推薦はいりません”と言ったら、怒られちゃいましたよ(笑)。同期の連中は、ほとんどが富士通やNECなど大手企業のSEを志望していましたし、大学のカラーも、軟派なゲーム会社への就職なんて、とても考えられない雰囲気でしたからね」

 大学の先生だけではない。今ほど一般に認知されておらず、将来も不安定と思われたゲーム業界への就職を家族に納得させるためにも、鯉沼さんはひと苦労した。

「うちの父もお堅い銀行員ですし、ただゲーム会社に就職したいといっても猛反対されるに決まってる。だから、それをさせないためには、ゲーム業界の中でも財務が安定していて、将来性のある会社に行きたいと、ちゃんと説得しないとダメだと思ったんですよね」

 そこで鯉沼さんは、株式を上場しているゲーム会社を探し、公開されている財務資料を徹底的に調べた。

「幸い、うちの祖父が株や先物取引をやっていたせいで、私も経済に明るかったんですよね。子供の頃から、なぜか祖父に会社四季報の読み方を教え込まれていたりしたので、各社の財務資料を読むのは簡単なことでした。そして、ここなら経営的にも問題ないと思えた会社の中に、コーエーがあったんです。ちょうど、その頃が店頭公開をして2年目くらいのときで、財務もしっかりしてました。ほかにもいくつか一部上場の会社も候補にはしてたんですが、私は昔からコーエーのシミュレーションが好きでしたから、これはコーエーに行くしかないだろうと心には決めていたんです。そこからですね、親を会社の経営面からの資料で一生懸命説得して。さすがに両親は、父と同じ銀行を受けるか、ゲーム会社の中でもせめて一部上場の企業に行けといいました。でも私は、“コーエーは、一部上場の会社に比べて規模では見劣りするかもしれないが、財務指標もよくて、余剰金もしっかりある”と資料片手に攻めまして、コーエーを受験することをOKさせたんです(笑)」

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