PlayStation.com(Japan)
PLAYSTATION®3PSP®「プレイステーション・ポータブル」PlayStation®2SCEJソフトウェアサポートPS World
ムービーチャンネル広告・イベント情報諸兄、ゲームやろうぜ!はじめてのPSP®はじめてのPS2クリエイターインタビュー
ホームページ
今から500年後、巨匠の映画が忘れられてもゲームは残るかもしれない。それほどコンピュータゲームの現在は歴史的瞬間だと思うんです。
 イシイ ジロウ
 

個性的な作品をつくり出す注目のゲームクリエイターに“あなたができるまで”を訊くロングインタビュー企画「THE EARLY DAYS」。10月のゲストは、PLAYSTATION®3で話題沸騰のサウンドノベル最新作『忌火起草』(セガ)のプロデューサー、チュンソフトのイシイジロウさんだ。幼少時よりSFアニメに耽溺した学生時代を経て、広告デザイン、映像制作などさまざまなジャンルで活躍してきたイシイさんは、“最高のエンタテインメント”であるゲームと、幾度となく出会い、別れ、また出会ってきた。その運命的な半生を、彼の言葉でたどってみると……?

取材・文/阿部美香(ライター)
 

小学校時代〜関西でいちばんマニアな小学生に

photo

 柔らかな口調で、時折、冗談を混じえながら、にこやかに自身を語るイシイジロウさんの故郷は、兵庫県・西宮市。こちらのどんな質問にも、間髪入れずに答えてくれる軽快な兵庫弁のトークは、関西人独特のサービス精神にあふれている。今回の取材、「さて、どの時代のお話から聞かせていただけますか?」と問いかけると、イシイさんはすかさず、あまりにも早熟な小学校時代の趣味との出会いを語り始めた。

「僕は、関西圏……神戸で、いちばんオタクな小学生グループを作ってました。当時はもちろん、まだオタクという言葉はなかったんですけど、小学校4年生くらいから、大人に交じって同人誌を作ってたんですよ。当時はまだ、漫画とかアニメを題材にして、サークル活動すること自体が特殊。僕が入ったサークルも、通称“MAC”。“マンガ・アニメ・クラブ”という、わかりやすい名前でしたね(笑)。」

 今でこそ、学生が同人活動をするのは珍しくもないことだが、イシイさんが小学生時代だった70年代末期は、『宇宙戦艦ヤマト』『銀河鉄道999』のヒットによってSFアニメがブームとなり、いわゆる“コミケ”に代表される同人誌即売会が、やっと日の目を見るようになってきた時代だ。そのムーブメントの中心にいたのは、大学生をメインとする若者世代。小学生がそこに入り込むとは、なんとも早熟な……。

「そうなんですよね。それには、周囲の環境も影響してて。当時、僕の家は自営業をやっていて、そこそこお金に余裕があったもんですから、仁川学院小学校という……私立のボンボン校に通っていたんですよ。同級生もお金持ちの子が多くて。でも、そういう子供達って、どっか趣味も変わってて、興味を持つアニメもマニアックなんですよね。もちろん、当時の『宇宙戦艦ヤマト』ブームにもちゃんとのっかっていて、一般的に人気のあるアニメも観てはいるんですが、それよりも、60年代に放映されたモノクロの『サイボーグ009』のテレビシリーズを観たいとか、『佐武と市捕物控』のオープニング映像は観られないものだろうかとか、そういうものばかりを追い求めていた小学生でした。なぜ、そんなことになってしまったかというと……金持ちの友達が、普通の小学生では手に入れられないような、三万円の宇宙戦艦ヤマト全記録集(全3巻)みたいな資料本とか、「テレビまんが主題歌のあゆみ」4枚組5600円みたいなレコードをいっぱい買っちゃうんですよ(笑)。そうすると、自分達が観たことのないものを観たくなるし、議論が始まる。そこで出る結論が、“『ヤマト』はよかったけど、最近のアニメはロボット物ばっかりでダメだ。まぁ、(勇者)『ライディーン』は許せるけどね”なんて話だったりするんですよ(笑)」

 そんなイシイさんを打ちのめし、エンタテインメント原体験となった作品は、劇場版『さらば宇宙戦艦ヤマト』。

「あれは小学校5年生の時でした。何にショックを受けたって、最後はハッピーエンドだと思って観ていたのに、アンハッピーエンドで終わってしまったことが、いちばんのショックだったんです。途中で、脇役が死んでいくのはしょうがない。でも、主人公は生き延びるだろうと小学生ながらの予想をしながら観ていたのに、脇役を逃がして主人公とヒロインが敵に特攻していくアニメなんて、子供にとってはあり得ないじゃないですか(笑)。しかも、上映時間が2時間以上ある。ひとつのエピソードが出てくるたびに、もう終わるだろうと観ているうちに、どんどん人が死んでいって、最後がソレですよ。エンディングを迎えた頃には、感動するとかしないとかじゃなく、何が起こったのかわからなくて呆然としてました(笑)」

 その劇的な体験が、ひとりの漫画アニメマニアに「僕も作品を作る人間になりたい!」というクリエイティビティを植え付けた。そこからイシイ少年は、自分でSF映画のパロディ漫画を描き、同人サークルに参加するまでになっていった。

「最初にお話した、同人誌サークルに参加するキッカケも『さらば宇宙戦艦ヤマト』に関係あるんですよ。当時、神戸にマニアックな本屋さんがあって、そこで『さらば』の公開の時に、数種類あるポスター付の劇場前売り券を扱っていたんですね。で、僕はそのポスターが全種類欲しかったんですけど、そんなにたくさんチケットを買えるわけでもないので、ポスターをくれないかと頼んでみたんですよ。その時、店員さんが“キミ、ほんとにこういうの好きだね。この店の上で、アニメが好きな大学生のお兄ちゃん達の集まりがあるから行ってごらん”って教えてくれて、友達と一緒にその集まりに行ったのが最初でした」

 イシイさんとしては、本当にやりたかったのは、自分が好きだったアニメのような映像作品を作ること。しかし、小学生の身で映像に手を出すのは、さすがに無理だった。それでも、描きたいストーリーは頭の中にいくらでも沸いてくる。そしてイシイ少年は、毎日、友達と一緒に“物語を語る”子供になっていた。

「毎日、学校からの帰り道は、友達にお話を語る時間でした。何々星雲から何とか星人が攻めてきて、すごいライバルが出てきて、美少女を助けて、誰かが死んでいく、みたいな。……まぁ、だいたいは『ヤマト』のパクリなんですけどね(笑)。1日ずつ、友達と交代で、電車の駅までSFストーリーを語りながら帰るわけです。でも、駅までの道のりでは、お話が終わらないんですよね。だから、友達の家の駅でいったん降りて、話が終わるまでホームのベンチでも語る(笑)。だいたい、映画1本分の長さはありますよ。放課後から夜まで、それで丸つぶれでしたね。そして、自宅に帰ってからは、そのお話のキャラデザインをして漫画を描くわけです(笑)。時代柄、そのキャラデザインは、かなり江口寿史さんの影響を受けてましたね。『すすめパイレーツ』の絵柄で、『宇宙戦艦ヤマト』が描かれてましたね(笑)。ちなみに友達の話は、コンタロウさんの『1・2のアッホ!!』のキャラクターが出てくる『幻魔大戦』でした(爆笑)」

 将来の夢は、漫画家かアニメ監督。もちろん、憧れのクリエイターは『宇宙戦艦ヤマト』の松本零士であり、西崎義展だ。アニメ雑誌を読み、掲載されていたアニメの絵コンテを真似る。MACが製作した同人誌にも、大学生に交じってパロディ漫画を発表するなど、彼の創作意欲はどこまでもふくらんでいった。

ページの先頭へ

『ガンダム』がサブカルヒーローへと導いた中学時代

photo

 しかし、そのイシイ少年に、ある転機が訪れる。家庭の事情で、小学校卒業後は公立中学に進むことになり、それまでから環境が一変する。

「そうすると、“物語る”ヤツがまわりにいなくなるんですよ(笑)。同級生の友達に、“お話をしながら帰ろうよ”なんて誘おうものなら、“はぁ?”と言われてしまうんです。“キミもSFとか読んでるでしょ?”と聞いても、“読んでねーよ!”と(笑)。そこですごく疎外感を感じてしまって、中学1年で登校拒否のような状態になってしまいました」

 新しい中学ではSFを一緒に語る友達もできず、イシイさんは家でアニメに耽溺する日々を過ごすことに。

「その時、観ていたのが『機動戦士ガンダム』と『地球へ…』。“人類はまだまだ進化していない。これはニュータイプの時代を待つしかない”と思いながらね(笑)。辛かったですね、あの時代は」

 今でこそ、知らぬ人のない『機動戦士ガンダム』だが、初回放映時は全く人気のない作品だった。イシイさんも……。

「僕も最初はバカにして、初回放送を観てなかったんですよね。それまで、人間ドラマを描いた『ヤマト』にハマっていた僕は、『ガンダム』がロボットアニメだというだけで全否定してました。ところが、SF仲間だった小学校時代友達から電話が掛かってきて、“ガンダム、すげーぞ。観ろ!”というわけです。そして、テレビをつけたら、ガンダムが燃えながら大気圏に突入してたんですよ。そこで“え? 燃えるって?”と思いましてね。『ヤマト』にはそんな描写はなかったですから。そして調べてみると、ちゃんと科学的な検証に基づいて作られた話だった。そこで、まわりに“『ガンダム』はすごい”とアピールしたんですが……まだ人気が出てない頃なので、“何いってんの?ロボットアニメ?バカじゃないの?”という扱いをされて、さらにクラスで疎外感が増していったんです」

 だがイシイさんは、隣のクラスにひとりだけ、わずかに似通った趣味を持つ同好の士を見つける。

「彼はなんと、『スタートレック』のファンだったんです(笑)。で、僕は『ヤマト』ファンでしたから、ふたりでワープ理論について、どっちが正しいか語り合ってましたね。そいつもまたすごいマニアで、洋書を読むんですよ。原作の翻訳本が待てない。しかも『スタートレック』は、「インサイドスタートレック」というLPレコードが出ていて、彼は出演者の英語のインタビューを聴いてるんです。そんなふうに、いちおうSF仲間はいたんですが、疎外感はずっと残っていましたね。家で、布団をかぶってひとりでお話を考えながら、いろんなことを我慢してました」

 当時、イシイさんの心を掴んでいたのは、本格SFへの道。『ガンダム』も、彼の興味はモビルスーツそのものにあったわけではなく、あくまでもリアルなSF設定にあった。イシイさんは、『ガンダム』の原点を探すためにSF専門誌を読み漁ってSFの知識を育み、いつか自分も手がけてみたいと思っていたアニメーション技術にも造詣を深めていった。

「そうですね。確かに『ガンダム』も印象深い作品ですけど、すぐに『伝説巨神イデオン』も始まりましたし、SF的な魅力でいえば『地球へ…』も大好きでした。アニメーションに関しても、技術的にテレビアニメーションには何の期待もしていなかったですから、むしろ、当時ディズニーを越えようと頑張っていた、『シリウスの伝説』などのサンリオ作品に傾倒してましたね。関西はSFが盛んな土地柄ですから、庵野秀明さん達の作品が話題になった“DAICON3”(※大阪で開催された、第20回日本SF大会)ももちろん知ってましたし、大阪で発表されていた彼らの作品もリアルタイムで観ていました。岡田斗司夫さんがやっていたSF専門店「ゼネラルプロダクツ」にも通いましたね」

 学校も休みがち。心の中では、このままではいけないと感じていたイシイさん。そんな折、ひとりの女性徒が彼を学校に行くように誘い出してくれた。

「まぁ、そこで初恋があったりもして。話すと長くなるのではしょりますが(笑)、彼女がキッカケで、やっと学校に通うようになるんです。そうしたら、中学3年生くらいになって、『ガンダム』ブームがやってきたんです。そのとき、同級生達が“そういえば、イシイ、『ガンダム』すごいって言ってたよな? ガンプラは手に入らないか?”と。僕にしてみれば、“何を今さら?”でしたが、そこで僕に春が訪れたわけです(笑)。もうひとつ、僕にとって風向きがよかったのは、YMOのブームだったんですよね。アニメ音楽繋がりで冨田勲さんを聴いていたこともあって、僕はシンセサイザーミュージックにも詳しかった。『ガンダム』とYMOの両方を押えていたので、そこで僕は一躍、サブカルヒーローですよ。ようやく時代が追いついたんです(笑)」

ページの先頭へ

アニメ少年から映画少年へと転身した高校時代

photo

 そして高校へ。『ガンダム』とYMOブームをキッカケに、せっかく広がった交友関係を裁ち切りたくなかったイシイさんは、中学3年生時代の同級生達がいちばん多く進んだ、西宮市立西宮高校に進路を決めた。

「高校時代も二転三転あるんですが(笑)、いちばん最初の思い出は、アニメーション同好会に入ったことですね。実は中学時代、西宮高校の文化祭に遊びに行ったときに、僕がアニメ同好会の展示を見ながら“僕、これ持ってます。これも持ってますよ!”なんて言ってたものだから、そこの部長に高校に入ったら入部しろと青田買いされていたんですよ」

 ところがイシイさんは、アニメを語るためにそこに入部するだけでは満足できなかった。彼の野望は“アニメ同好会を、正式な部へと昇格させること”。そこで?

「高校1年の文化祭が最大のアピールの場所だと勝負をかけて、観客の動員が見込めるアニメの上映会を催したんです。オタク仲間が録画していた『うる星やつら』テレビシリーズを一挙上映したり、『太陽の牙ダグラム』やテレビでやってたSF洋画を上映したり。当時は、まだそんなにビデオも普及してなかったし、レンタルビデオ屋もなかったので、そりゃあみんな観に来ますよ(笑)。ほかにも、僕らがコレクションしていた昔のアニメの貴重なポスターとか、『ガンダム』のセル画を展示したり。兵庫県ではトップクラスの品揃えだったと思いますよ。しかも、女子生徒が『1000年女王』や『六神合体ゴッドマーズ』のコスプレをする企画まで実現させました(笑)。コスプレも、当時のオタク文化としては最先端でしたよね」

 イシイさんのアイデアが実を結び、アニメ同好会の催しは学校一の動員を記録。それが認められて、アニメ同好会はアニメ部に昇格し、イシイさんは初代アニメ部部長の大役を担うことになった。

「ところが、ここに落とし穴があったんですね。うちの部は、2年生の数が少なかったものですから、3年生の引退後は、ほぼ1年生が中核になる。でも、そのほとんどが女子部員だったんですよ。彼女達は、楽しく部活ができればいいと思ってる子ばかり。でも、僕はオタクエリートとして(笑)、真面目にアニメやSFを突き詰めたいと考えていた。結局、彼女たちとはソリが合わずに、部長だったにもかかわらず、1年生の終わりでアニメ部を辞めてしまいました」

 あんなに一生懸命、活動に取り組んでいたアニメ部を飛び出してしまったイシイさん。そこからの彼は、アニメからは一歩身を引いた生活に踏み出していく。そのキッカケとなったのは?

「高2くらいですかね。『クラッシャージョウ』と『幻魔大戦』と『宇宙戦艦ヤマト 完結編』を観たんですが、どれも“違う!”と思ったんですよ。『ガンダム』『イデオン』以降、アニメが新世紀宣言をして、エンタテインメント映像の最先端を行くはずだったのに、何かがずれてきてた。その時に、『超時空要塞マクロス』が始まったんです。すごい作画で、アニメとしてはすごいんですけど、一般人が置いてきぼりにされるような話が展開していた。“ラムちゃんかわいい”とみんなが騒いでいた、『うる星やつら』で感じた違和感を、もっと拡大した作品になってしまっていたんです。僕はアニメに、ディズニーのクオリティを越えたSF映像作品を期待していた人間だったから、そういう風潮にはうんざりでした」

 そんな頃に出会ったのが、当時一大ブームを築いていた角川映画だった。中でも、当時の青少年を熱狂させた、原田知世の映画デビュー作『時をかける少女』との出会いは、印象的だった。

「内容もよかったんですが、『時をかける少女』のエンディングには、本編のメイキング映像が流れるという仕掛けがあって、それがとてもよかった。それを観て“いいなぁ、映画監督って。可愛い女優さんを好きに撮れて”と思ったんですよね。アニメはどんどん、僕にとって気持ちの悪い世界に行ってしまう。じゃあ、これからは実写だろうと。実写でアニメ以上の映像作品を作りたいと、そこから映画少年になったんです」

 そこでイシイさんは、自主製作映画を作りたいと、高校の映画研究会の門を叩いた。しかし?

「門前払いを食らいました(笑)。映研の連中は、映画を観ることより撮ることだけに一生懸命で、どちらかと言うと演劇部の延長でした。だから、(ジャン=リュック)ゴダールも知らなければ、僕の好きだった(フェデリコ)フェリーニにも(アンドレイ)タルコフスキーにも黒澤(明)にも野村芳太郎にも興味がない。僕も、こいつらとは一緒に活動はできないなと思い、自分達でクラブを立ち上げたりしましたね」

ページの先頭へ
Back Numberはこちら
ページの先頭へ