そして、映画監督になりたいという夢が芽生えたイシイ少年は、高校卒業後は映画学校に進もうと決意する。
「どうせなら、地元を離れた学校にしようと、横浜にある日本映画学校を受験して、合格したんです。でも父親の猛反対にあいまして、学費も出して貰えないということになり、結局、そこには行けなかったんです。あれはかなりの挫折でしたね。目の前が真っ暗になって、第2の引きこもり期がやってきたんです。でも、いつまでもそうしてもいられないと思い立ち、とりあえず今を浪人時代と思って、自分で学費を稼いで来年、どこかの学校を受け直そうとアルバイトを始めることにしました」
時代はバブル絶頂期。まわりの友達は大学生となり、外車を乗りまわすような優雅な学生生活を送っていた。それを横目に見ていたイシイさんは……。
「とにかく、いじけていましたね(笑)。何の悩みもなく、バブリーな生活をしているヤツらがたくさんいるのに、なんで僕だけ、自分で学費を貯めなきゃならない貧乏生活をしてるんだと。そんな時です。アルバイトニュースを読んでいて、“PCゲームのキャラクターデザイナー募集”という記事を見つけたんです。それが、大阪の放出にあるデータウエストでした」
絵を描くのはお手の物だったイシイさんは、さっそく作品を抱えてデータウエストを訪れた。すると?
『REV OPERATION』
企画書
「“じゃあ、来てみる?”と言ってくれたので、“絵だけじゃなく、お話も書けますよ”とアピールしたら、とにかく作りたいものを描いていいと。それで、資料としてもらった他のゲームの仕様書を見ながら書いたのが、『REV OPERATION』というタイトルの企画書なんです。今はもう、人には見せられないような絵なんですけどね(笑)。ゲームの内容は、ロボット物でお姫様を助ける冒険ストーリー。まぁ、要するに『重戦機エルガイム』のパクリですね(笑)。ゲームシステムはロボットアクション+戦闘シミュレーション+アドベンチャーゲームで、当時流行ってた疑似3Dダンジョンなんかも入ってました。とにかく映画っぽいゲームにしたかった。“〈板野ミサイル〉をやりたいんですよ!”なんて言いながら、絵コンテも書きましたね」
それまでゲームについては、PCで『ザ・ブラックオニキス』、FCで『ドラゴンクエスト』と『マリオブラザース』を遊んだことのあるくらいの知識しかなかったイシイさんは、ハードのスペックには頓着せず、とにかく自分のやりたいことを、全てこの企画書につぎ込んだ。しかし当然ながら、会社の“現在の技術力では、これを実現するのは無理”の一言でボツになる。
「こんな複雑なゲームは作れないので、もっと簡単なのにしてくれ、と言われて渡されたのが、ゲームブックの本でした(笑)。要するに、選択肢がいくつか出てきて、それを選んで進んでいくオーソドックスなアドベンチャーを求められました。そして商品化されたのが、’87年に発売された『イミテーション・シティ』というコマンド入力式のアドベンチャーです。お話は、まぁ『ブレードランナー』のパクリですね(笑)。でも、日本ではずいぶん早い段階、某監督より2年ほど早く作った『ブレードランナー』風ゲームなんですよ。そこは、ちょっと自慢したいなぁと(笑)。ただね、ゲームとしては全然練られていない。唯一、電話番号探しをゲームのキーにしたのは、いいアイデアだったかな。ゲーム開発未経験の19歳にしては、頑張ったと思うんですけどね(苦笑)」
だが、生まれて初めて、自分の企画がゲームとして日の目を見た満足感は得られたものの、イシイさんは、金銭面の問題に悩まされた。
「僕の仕事は、印税契約だったものですから、せっかくたくさん企画書を書いても、お金が入るのが半年後なんですよ。あれは辛かったですね。もらえた金額も30万だか50万だかで、それなりに大金ではあるんですが、“半年働いてこれかよ”みたいな感覚はありましたね。時給にしてもらったほうが、よかったんじゃないかと(笑)。あと、このゲームでひとつ大変だったのが、パッケージのデザインで会社とすごくもめたんですよ。僕は、尾崎豊や浜田省吾なんかのデザインをやっていた田島照久さん風に、英語を散らしたロックっぽいのにしたかったのに、出来上がったパッケージはいかにもハードボイルド小説の表紙風で全然イメージが違いました。すごく傷ついたんですね。それに、当時のPCではまだ僕の思い描く映像に、マシンの処理自体がついていけなかった。そこで、“あぁ、まだ僕にはノウハウが足りないし、現状では、僕が求めている映画と勝負できるようなゲームは実現できないんだ”と思い知りまして、“二度とゲームは作るものか!”と決意したんです」
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