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今から500年後、巨匠の映画が忘れられてもゲームは残るかもしれない。それほどコンピュータゲームの現在は歴史的瞬間だと思うんです。
 イシイ ジロウ

挫折を経てゲーム業界でアルバイトを経験

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 そして、映画監督になりたいという夢が芽生えたイシイ少年は、高校卒業後は映画学校に進もうと決意する。

「どうせなら、地元を離れた学校にしようと、横浜にある日本映画学校を受験して、合格したんです。でも父親の猛反対にあいまして、学費も出して貰えないということになり、結局、そこには行けなかったんです。あれはかなりの挫折でしたね。目の前が真っ暗になって、第2の引きこもり期がやってきたんです。でも、いつまでもそうしてもいられないと思い立ち、とりあえず今を浪人時代と思って、自分で学費を稼いで来年、どこかの学校を受け直そうとアルバイトを始めることにしました」

 時代はバブル絶頂期。まわりの友達は大学生となり、外車を乗りまわすような優雅な学生生活を送っていた。それを横目に見ていたイシイさんは……。

「とにかく、いじけていましたね(笑)。何の悩みもなく、バブリーな生活をしているヤツらがたくさんいるのに、なんで僕だけ、自分で学費を貯めなきゃならない貧乏生活をしてるんだと。そんな時です。アルバイトニュースを読んでいて、“PCゲームのキャラクターデザイナー募集”という記事を見つけたんです。それが、大阪の放出にあるデータウエストでした」

 絵を描くのはお手の物だったイシイさんは、さっそく作品を抱えてデータウエストを訪れた。すると?

『REV OPERATION』
企画書

「“じゃあ、来てみる?”と言ってくれたので、“絵だけじゃなく、お話も書けますよ”とアピールしたら、とにかく作りたいものを描いていいと。それで、資料としてもらった他のゲームの仕様書を見ながら書いたのが、『REV OPERATION』というタイトルの企画書なんです。今はもう、人には見せられないような絵なんですけどね(笑)。ゲームの内容は、ロボット物でお姫様を助ける冒険ストーリー。まぁ、要するに『重戦機エルガイム』のパクリですね(笑)。ゲームシステムはロボットアクション+戦闘シミュレーション+アドベンチャーゲームで、当時流行ってた疑似3Dダンジョンなんかも入ってました。とにかく映画っぽいゲームにしたかった。“〈板野ミサイル〉をやりたいんですよ!”なんて言いながら、絵コンテも書きましたね」

 それまでゲームについては、PCで『ザ・ブラックオニキス』、FCで『ドラゴンクエスト』と『マリオブラザース』を遊んだことのあるくらいの知識しかなかったイシイさんは、ハードのスペックには頓着せず、とにかく自分のやりたいことを、全てこの企画書につぎ込んだ。しかし当然ながら、会社の“現在の技術力では、これを実現するのは無理”の一言でボツになる。

「こんな複雑なゲームは作れないので、もっと簡単なのにしてくれ、と言われて渡されたのが、ゲームブックの本でした(笑)。要するに、選択肢がいくつか出てきて、それを選んで進んでいくオーソドックスなアドベンチャーを求められました。そして商品化されたのが、’87年に発売された『イミテーション・シティ』というコマンド入力式のアドベンチャーです。お話は、まぁ『ブレードランナー』のパクリですね(笑)。でも、日本ではずいぶん早い段階、某監督より2年ほど早く作った『ブレードランナー』風ゲームなんですよ。そこは、ちょっと自慢したいなぁと(笑)。ただね、ゲームとしては全然練られていない。唯一、電話番号探しをゲームのキーにしたのは、いいアイデアだったかな。ゲーム開発未経験の19歳にしては、頑張ったと思うんですけどね(苦笑)」

 だが、生まれて初めて、自分の企画がゲームとして日の目を見た満足感は得られたものの、イシイさんは、金銭面の問題に悩まされた。

「僕の仕事は、印税契約だったものですから、せっかくたくさん企画書を書いても、お金が入るのが半年後なんですよ。あれは辛かったですね。もらえた金額も30万だか50万だかで、それなりに大金ではあるんですが、“半年働いてこれかよ”みたいな感覚はありましたね。時給にしてもらったほうが、よかったんじゃないかと(笑)。あと、このゲームでひとつ大変だったのが、パッケージのデザインで会社とすごくもめたんですよ。僕は、尾崎豊や浜田省吾なんかのデザインをやっていた田島照久さん風に、英語を散らしたロックっぽいのにしたかったのに、出来上がったパッケージはいかにもハードボイルド小説の表紙風で全然イメージが違いました。すごく傷ついたんですね。それに、当時のPCではまだ僕の思い描く映像に、マシンの処理自体がついていけなかった。そこで、“あぁ、まだ僕にはノウハウが足りないし、現状では、僕が求めている映画と勝負できるようなゲームは実現できないんだ”と思い知りまして、“二度とゲームは作るものか!”と決意したんです」

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一からの出直し〜デザイナーから映像クリエイターへ

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 アルバイトとして入ったゲーム業界で、手痛い挫折を味わったイシイさんは、「映像よりも、ゲームよりも前に、まずはデザインの勉強から始めよう」と思い立ち、デザインをやりながら安定した収入を得られるリクルート関西支社への就職を決めた。

「リクルートではラッキーなことに、僕が入ってすぐ設けられた社内の広告デザインの新人賞と、全員の中から選ばれる努力賞というのをもらったんです。それですっかり天狗になりまして(笑)、“関西じゃ俺がいちばん”なんて思っちゃったんですね。で、“リクルートにいても求人広告しか作れない。もっとカッコいいことやってる会社はないのか”なんてことを考えて、当時のクライアントだったカルチュア・コンビニエンス・クラブ(CCC)に転職したんです。まぁ、いいかげんな男ですよね(笑)」

 CCCでも会社案内や社内の冊子などのデザインを続けていたイシイさん。そんなある日、彼は社長の増田宗昭さんに呼ばれ、フランチャイズ向けの会社案内映像のディレクションを任されることになる。

CCCプロフィールビデオ
絵コンテ

「別に、僕は社長に、映像を作りたいんですというアピールは一切してなかったんですが、紙の会社案内のディレクションをするなら、一緒に映像も作ってしまったほうが効率的だったんですよね。そう言われてから、“あぁ、そういえば昔から、実写映像を作りたかったんだ”ということを思い出しまして(笑)、喜んで絵コンテを描きました」

 そこからイシイさんは、やはり紙の広告のデザインよりも、動く映像を作るほうが面白いと再認識。映像作りのほうにのめり込んでいく。だが、縁というのは奇妙なものだ。映像制作を続ける彼は、ここで再びゲームと再会する。

「当時はそれほど一般的ではなかったんですが、CD-ROMでアルバイトのマニュアルを作ることになり、Macintosh IIを手に入れたんです。そして出会ったのが、データウエストのアルバイト時代に僕が考えていたゲームのコンセプトを実現していた『スペースシップワーロック』でした。やっと、作りたい物が作れる時代が来たんだと感動しました」

 しかもその時期、イシイさんは、本職であるアルバイトマニュアルを作る仕事のほうにも、多少の煮詰まりを感じ始めていた。

「映像作品を作っていると、回を重ねるごとに、面白い物にしたくなってしまうんですよ。最初は真面目なアルバイトマニュアルだったんですが、第2弾は特撮ヒーローのパロディにしてみたり(笑)。でも、それじゃマニュアルとしての情報をちゃんと伝えるという主旨からどんどんずれていくんです。僕はやっぱり、情報映像ではなくエンタテインメント作品を作りたい。そのジレンマに悩んで、取引先の人に相談したところ、日経グループがCD-ROM作品に積極的に取り組んでいるからと、日経ビデオバンクという会社を紹介してくれたんです」

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次世代の到来〜再び、ゲーム制作の現場へ

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 それまで関西で暮らしていたイシイさんは、日経ビデオバンクへの転職を機に上京する。時代はまさに、PSの登場前夜。PCにもコンシューマゲーム機にもCD-ROMの波が押し寄せ、大容量メディアによる新しいデジタルエンタテインメントの時代が見え始めていた。

『MA-RI-A〜人形館の呪い』

「そんな時代でしたから、日経ビデオバンクに入ってまず、CD-ROMでゲームを作りたいという提案をしました。まだPSが出る前でしたから、PCで。そして、映像制作をしていた時代のコネクションをいかして、手塚眞さんに原案をお願いし、音楽は配島邦明さんにお願いして、僕が脚本と監督を担当した『MA-RI-A〜人形館の呪い』というタイトルを作り、’96年にポニーキャニオンを販売元に発表したんです。

ジャケットデザインは常磐響さんがやってくれましたから、かなり豪華なクリエイターが揃っていたんですよね。映像のイメージ的には『Dの食卓』に近いのかな? ランダムなムービーの組み合わせで、3Dの空間を歩いていくゲーム。システム的には『不思議のダンジョン』の風味があり、大正時代の洋館でホラーが起こるところは『忌火起草』にも通じている。そう考えると、僕にとって『忌火起草』の原点になったような作品でしたね」

 続いてイシイさんは、今度はNTT出版と組んで、『MA-RI-A〜人形館の呪い』とは打って変わった美少女ゲーム『Little Lovers』を’97年に発表する。コンセプトは、美少女を主役にした『リトル・コンピュータ・ピープル』。女の子を妹か娘に設定し、バーチャルペット化。PCのデスクトップ上で自由にコミュニケーションを図るゲームだ。これが、イシイさんの予想を越えるヒット作となった。

「僕は当然、プロのクリエイターを揃えた『MA-RI-A〜人形館の呪い』のほうが売れると思ってたんですが、結果は逆で。プログラムもシンプルな、ゲーム開発初心者が寄り集まって作った『Little Lovers』のほうが、ユーザーに受けてしまったんですね。それで若干、僕にも戸惑いは生じたんですが(苦笑)、ギャルゲー作りも意外に面白かったので、その後も続編を作ったり、PSでギャルゲーの人生ゲーム『Little Lovers SHE SO GAME』(リトルラバーズシーソーゲーム)を作ったりしてました。『Little Lovers SHE SO GAME』はなかなか斬新なギャルゲーで、ひとりの女の子をプレイヤーを含めた男4人で取り合うんですよ。失恋する面白さを扱ったゲームは珍しかったんですけど、売り上げには結びつきませんでしたね(笑)」

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