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ゲーム作りの面白さ、楽しさは何にも勝る。僕は一生、現場でゲームに関わっていたいですね。 伊津野 英昭
 

個性的な作品をつくり出す注目のゲームクリエイターに“あなたができるまで”を訊くロングインタビュー企画「THE EARLY DAYS」。2007年のラストを飾るゲストは、’08年1月31日、いよいよPLAYSTATION®3でそのベールを脱ぐ超大作アクション『デビル メイ クライ 4』のディレクター・伊津野英昭さんだ。ロボットアニメと物作り、ゲームをこよなく愛する伊津野さんが、ゲーム・ディレクションに関わるまでの道のりには、さまざまな体験があった。一生現場主義を貫きたいという想いを込めた最新作、『デビル メイ クライ 4』の見どころと共に、伊津野さんの半生を伺った。

取材・文/阿部美香(ライター)
 

合体ロボットと共に過ごす〜小学生時代

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 現在、カプコンのプランナーとして、格闘アクションゲームを出発点に、数多くの作品を世に送り出してきた伊津野英昭さん。伊津野さんが生まれたのは大阪府。だが、すぐに銀行員である父親の転勤があり、奈良県奈良市で幼少期を過ごすことに。さらに、その後も実家は引っ越しを繰り返す。大阪から奈良県奈良市、兵庫県西宮市、そして再び奈良県へ。

「記憶に残っている最初の町は、幼稚園時代を過ごした奈良ですね。住んでたのは、西大寺という駅のあるところですが、そこも小学校1年くらいまでしかいなかったですね。そこから、西宮市に移って、西宮でも新設の小学校ができることになったので、すぐに新しい小学校に転校して。そして5年生になって、親が奈良に家を建てたのをキッカケに、また奈良に転校して……。小学校だけでも4回転校したんですよ。まぁ、ずっと関西をグルグルまわってただけなんですけどね(笑)。大人になっても、大阪のカプコンに入ってしまいましたから、未だに、こうして仕事で訪れる東京は怖い街ですねぇ(笑)」

 その彼が、子供時代を思い出すときに、欠かせないアイテムがひとつある。「子供の頃の思い出といえば……」と、最初に口をついて出たのは“合体ロボ”という単語だった。

「学校を転々としてたせいか、その土地で何か、という思い出もそんなにないんですよ(苦笑)。なので、子供時代の思い出と聞かれると、とにかく思い出すのは合体ロボですよね。キッカケは……やっぱり物心つくかつかんかというときに観た『マジンガーZ』になるんですかね? それに始まり、『ゲッターロボ』『コンバトラーV』と、一連の流れで……。もう土日の放映日が楽しみで仕方なかったですよ(笑)」

 伊津野さんが幼少期を過ごした‘70年代は、今でいうスーパーロボットが活躍するアニメが隆盛を極めた。その先駆けとなった『マジンガーZ』の放映がスタートしたのが’72年。ロボットアニメブームは、オモチャ業界にも大いに影響を与え、巨大ロボットをモチーフにした“超合金”シリーズもまた、一大ブームを巻き起こした。伊津野さんもまた、そんな超合金に魅せられた子供のひとりだ。

「ロボットのオモチャは、親にさんざん買わせてたみたいですよ。僕は全く自覚がないんですが、親に言わせると、“あんたには人よりも余計買うてやってる。オマエの欲が桁外れなんや”と、よく怒られましたね(笑)。さすがに、小学校低学年に買ってもらったのはなくしちゃいましたけど、実家に行けば、まだガラクタは残ってますね」

 では、合体ロボ以外の遊びは?

「そうですねぇ……家の周りでは年上の人とばっかり遊んでたみたいですね。団地に住んでたんですけど、ませてたらしくて、同年代の子とよりは、2〜3歳上の人たちと、外で遊んでることのほうが多かった記憶がありますね。どんな遊びをしてたのかは、あんまり覚えてないんですが(笑)」

 本人も言うように、少年時代の伊津野さんは、他よりもちょっとませた子供だったようだ。学校では、どんな子供だったかと聞くと?

「めちゃくちゃいいわけではないですが、勉強しなくても、そこそこ成績はよかったみたいですよ。そこもあんまりよくは覚えてないんですけど(苦笑)……1学年上の『科学』と『学習』を読んでました、ずっと。だからといって、勉強が好きだったわけでもないですけどね」

 そんな伊津野さんいわく、自分の人格は、小学1年〜4年まで暮らした兵庫県・西宮市時代に形成されたとか。

「西宮には、小学校1年生の夏から4年生の終わりまでいましたね。そこは社宅だったんですが、男女問わず、友達も多かったですしね。思い出に残ってるのが、学校の帰り道。公園があって、そこに土管が並んでたんですよ。4年生くらいの時ですかね、そこに仲間と集まって、“おまえ、どの子が好きやねん!”なんて話ばっかりしてました(笑)。土管の中に入り込んで、男3人で寝そべって、毎日1時間くらいそんな話をしてるんですよ。もちろん、僕にもいてましたね、好きな女の子。まぁ、あれが初恋になるんですかね、目の大きいかわいらしい子でした(笑)。いい思い出です」

 放課後は、友達と恋バナに花を咲かせ、その後は……?

「DX超合金を持ってる友達の家に遊びに行く、と(笑)。’70年代後半から’80年年代前半に小学生・中学生だった子は、みんな超合金大好きやったと思いますよ。友達とふたりで、ガーッとか、ギーンとか叫びながら戦わせてるだけなんですけど。まぁ、当時の男の子は、みんなそんな感じでしたよ」

 さらに伊津野さんは、自宅に帰ってからも合体ロボの世界に浸り込んでいた。工作好きだった彼は……。

「超合金の遊びよりも、自分で考えた合体ロボや変形ロボのほうが、思い出深いですね。工作用紙ってあるじゃないですか。厚手の紙で、方眼が印刷されてるヤツ。あれとカッターとセロハンテープと糊と……割りピンを用意して、自分で作るんです。飛行機に変形するロボットとか、合体するロボットを設計して、自作のペーパークラフト遊びをしてました。すぐ壊れちゃうんですけどね。そういえば、ロボットのアイデアを書きためたノートもありましたね。気に入ったロボットは、漫画にもしましたよ。ストーリーは、当時流行ってた『コンバトラーV』っぽかったかな。とにかく、合体しないロボには興味なかったですね(笑)。鉄腕アトムも鉄人28号も“ふーん”って感じで、僕にとってのロボットは、合体・変形してナンボでした」

 伊津野さんが、自作ロボットにハマったのにも理由がある。本当は、超合金がたくさん欲しかったのだが、合体ロボットのオモチャを何でも欲しがる彼に、両親も高価な超合金をそうそう与えるわけにはいかなかった。

「特に合体するオモチャは高いんですよね。合体なしのスタンダードな超合金は、たまに買ってもらえるんですが、合体とか変形とかのギミックがついたDX超合金はさすがに……。その気持ちを紛らわすために、自分で作る道を選んだというわけです。もともと、工作は大好きでしたからね。工作といえば、小学校の凧揚げ大会も思い出しますね。自分で作った凧を武庫川の河川敷で飛ばして、いちばん高く飛ばせた人が勝ちなんですけど、僕ね、3年生と4年生のとき、2年連続でそれに優勝してるんです(笑)。子供の頃から、なんやかんやと物を作ることに興味はあったんでしょうね」

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中学入学〜プラモデルとゲームに浸る

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 父親の転勤について、小学校を転々としていた伊津野さんは、両親が持ち家を建てた小学5年生から、奈良県に腰を落ち着ける。そして、中高6年一貫教育を行なう国立の奈良女子大学文学部附属高等学校・中学校を受験する。

「当時は、校内暴力が盛んになってまして、奈良といえども、かなり公立の中学は荒れてました。トイレットペーパーが燃えたり、窓ガラスがない学校もたくさんありました。さすがにそれが怖くて、中学を受験しようということになったんです。でも、私立はお金がかかるので、国立を受けてみようと。今は違うかも知れませんが、その頃はそんなにべらぼうに競争率も高くなかったですしね」

 そして、中学に入った伊津野さんは、テニス部に入部。今度は、テニスとロボット趣味の両立(?)を図っていった。

「さすがに、小学校を卒業すると超合金とはいわなくなり……プラモデルにシフトしてましたね。小学校でも、5年になるともうガンプラブームが来てましたから、そのあたりからプラモデルに徐々に移行してたんです。超合金は高くて、同じ合体モノでもプラモデルはゼロの数が1個少なかったですからね(笑)。そういえば、ガンプラには、ちょっと苦い思い出がありますねぇ。ガンプラが発売され出したのが、僕が小学4年生のとき。僕はロボットには目がない子でしたから、さっそく発売当初からガンプラを買い集めていたんです。そしたら、そのうち5年生になってブームが来て、今まで普通に買えてたガンプラが買えなくなり、すごく腹が立ちましたね。“この、にわかプラモ野郎どもが何をしてくれたんだ!”って。とても不愉快な思い出です(笑)」

 ガンプラブーム以前から、プラモデル作りに熱中していた伊津野さんが、中学時代に夢中になったのは『戦闘メカ ザブングル』であり……。

「そりゃあもう、バルキリー(『超時空要塞マクロス』に登場する可変戦闘機)ですよ! 中学時代は、ずーっとバルキリー(笑)。テニスの部活もちゃんとやりながら、そっちのほうも両立してました。今思えば、バランスのいい中学生だったんじゃないかと……(苦笑)。まぁ、ちょっと偏ってはいますけど、一度好きになると、何でも深く入り込んじゃうんですよ。そして、中学の後半になると、そこにファミコンが入ってくるんですよ」

 ファミコン以前にも、小学時代後半からゲーム&ウォッチを筆頭に、さまざまなLSIゲームに親しんできた伊津野さん。彼の家にファミコンがやってきたのは、’84年。伊津野さんが中学2年生のときだった。

「僕の場合は、ファミコン本体を買う前に、『ゼビウス』のカセットを先に手に入れてました(笑)。当時、ファミコンの値段が14800円。中学生がポンと出せる金額じゃないですよね。だから、しばらく本体を買えなかったんです。そうこうしてるうちに、『ゼビウス』がファミコンで発売されることになって、それを見たときに、『ゼビウス』は絶対にブームになるから、本体はないけど、先に買っとこうと思って(笑)。そのあとですね、弟、妹をそそのかしてお金をかき集めて、3人でファミコン本体をやっと買いました。抱き合わせで『マッピー』を付けられてね。『マッピー』でよかったですよ、ホントに(笑)」

 弟妹3人で買ったファミコンに、いちばんハマったのはもちろん、伊津野さんと弟さんのふたりだ。

「弟とは、ずーっと『ファミスタ』(『プロ野球ファミリースタジアム』)ばかりやってましたね。基本は、昼間、友達と一緒に遊ぶんですけど、夜になると、寝る前に弟とひと勝負してました。昔から野球も大好きだったんですよ。もちろん、阪神ファンです。中3の時に、21年振りにタイガースが優勝しまして、野球熱もかなり盛り上がりましたね」

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