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最低限のルールを守って、やらねばいけないことをやってこそ、好きなことに励む環境が得られる。 山岡 晃
 

個性的な作品をつくり出す注目のゲームクリエイターに“あなたができるまで”を訊くロングインタビュー企画「THE EARLY DAYS」。2008年の幕開けを飾るゲストは、日本国内はもとより、海外でも高い人気とセールスを誇るKONAMIのホラーアクション『サイレントヒル』シリーズのプロデューサー&サウンド・デザイナー、山岡晃さん。個性的な音楽に親しみ、激動の学生時代を過ごした山岡さんは、フリーの音楽クリエイターを経てKONAMIに入社。偶然の出会いから、自身のライフワークともいえる『サイレントヒル』シリーズに携わった。昨年末、PSPで発売された最新作『サイレントヒル ゼロ』、PLAYSTATION®3で'08年に発売が予定されている『サイレントヒルV』の話題と共に、山岡さんの半生を振り返る。

取材・文/阿部美香(ライター)
 

小学校時代〜おとなしく目立たないマニア少年

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 KONAMIを代表するホラーゲーム『サイレントヒル』シリーズを手がける山岡晃さんは、東京都町田市出身。『サイレントヒル3』からはサウンド・デザイナーとプロデューサーを兼任し、国内外の雑誌や映像メディアで、ユーモアを交えて、闊達なトークを披露する山岡さんの姿を目にしたことのあるゲームファンも多いことだろう。そんな彼の幼少時代は、さぞ活発で明るい子供だったのだろうと想像したのだが、意外にも……?

「僕の子供時代はね、けっこうなオタクでしたよ。スーパーカーのプラモデル作ったり、鉄道模型のNゲージでジオラマ作って遊んだり……アニメのセル画を真似して描いたりとか。当時のアニメは、今みたいにデジタルじゃないから、アニメに使われたセル画を集めるという趣味があったんですよね。集めるだけじゃなく、文房具屋さんに行くと、セル画を描く道具なんかも売ってて、ファンが真似してセル画を描くというのも流行っていたんです。それで、メーテルを描いたりしてましたよ(笑)。もちろん、粘土で工作をするのも好きだったし、ラジコンカーを買ってタミヤの大会にも出ましたし……子供がやりそうなマニアックな趣味は、ひととおり首を突っ込んでました」

 プラモデル、鉄道模型、セル画描き、粘土工作のほかにも、漫画を描く趣味もあったという。

「小学校の頃は、将来、漫画家になりたいと思ってましたね。自分でもギャグの4コマ漫画を描いていたんですけど……実は僕、漫画雑誌を一切、読まないんですよね(笑)。漫画誌って、ザラ紙使ってるじゃないですか。僕、まずあれがダメでね。あと、昔っから、コマ割りというのがどうも理解できないんですよね。ページをどう読み進めていけばいいのかが、わからなくなっちゃうんです。唯一、すんなり理解できるのは4コマ漫画(苦笑)。だから、アニメ化された作品は観てるんですけど、原作の漫画本は全く読まなかった。大きくなってからも、『ジョジョ』(『ジョジョの奇妙な冒険』)とかね、みんなが読んでる漫画を全然知らなかったから、知ったふりして人と会話を合わせるのが大変でしたね(笑)」

 ……と、多趣味な山岡さんは、漫画に限らず、絵を描くことが特に好きだった。

「一生懸命だったのは、美術ですかね。小・中・高校と、学校ではずっと美術部に入ってました。中学時代は、水彩画でちょっとデフォルメしながら、ザクなんかのモビルスーツの絵を描いて、友達に1枚500円で売ったりしてましたね(笑)。だから、子供時代は音楽よりも、絵を描くほうの道をずっと志していたんですよ。その証拠に……これはちょっと後の話になっちゃうんですけど、まだKONAMIに入社する全然前に、『グラディウス』でティザー用のポスターかなにかの絵を一般募集したことがあったんですよね。それに、ビックバイパーか何かの絵を描いて送った覚えがありますよ。しかも、油絵(笑)。ゲームのイメージがSFだから、みんなアクリル画材かなんかを使って、フォトレタッチっぽい作品を送るんだろうと思ったので、意外性をねらってみて。もし、会社のどこかにあの時の応募作品が残ってたら、返して欲しいんだけどなぁ(笑)」

 小学生時代の趣味から察すると、どうやら彼はかなりのインドア派。家の外で、友達と遊んだりはしなかったのだろうか?

「友達とわいわい遊んでた記憶は……あんまりないですね。というか、外に出て遊んでた記憶がほとんどない(笑)。非常にわかりやすいオタク少年ですよ。唯一、外に出て身体を動かしていたのが、スピードスケート。キッカケは、昔、親父がそこでスケートをやってたからなんですけどね。小学校5年生から高校まで、オリンピック強化クラブになるくらいの、ちゃんとしたスケートクラブに入っていたんです。今でも、テレビでスピードスケートのオリンピック番組とか観ると、僕が習ってたコーチが映ってたりする。毎週1回、学校の授業が終わってから、僕が住んでた町田からクラブのあった水道橋……後楽園のスケート場まで、真面目に通っていましたね」

 スピードスケートのおかげで、オタクではあるが、ただのひ弱な男の子ではなかったという山岡さん。厳しい練習を積み重ねた結果、国体に出場するまでの実力も、礼儀作法も身についた。

「スピードスケートをやったおかげで、ずいぶん鍛えられました。学校にいても、社会人と触れ合う機会って、先生相手くらいじゃないですか。でも、スケートクラブには大学生もいるし、社会人もいるし、スケートのプロの人もいるんです。そういう場所で、体育会系のノリが身につきましたよ。実際はね、辛い経験しかないんですけど(笑)。ケガもよくしましたし。おかげで実力もつきましたよね、練習、厳しかったですから。僕も中学2〜3年の頃には、国体に出場できるまでになりました。
 クラブで思い出すのは、個性的なユニフォーム。チーム名は“メリーメント”っていうんですが、 アシスタントコーチの本職が藤子不二雄作品のアニメーターだったので、チームのお揃いのトレーナーがドラえもん柄だったんですよ。25年以上前だからまだ許されたけど、今だったら、絶対やっちゃいけない(笑)。合宿なんかに行くと、他のチームが冷たい視線を浴びせてきて……ものすごく恥ずかしかったのを覚えてますね」

 スケートクラブに行かない日は、学校が終わって家に帰ると、プラモデルを作ったり、粘土を買ってきてオブジェを作ったりという日々。スポーツをやっていたといっても、スピードスケートは個人競技で、クラブも家から遠く、同年代の仲良しができる環境でもなかった。

「友達はですね……基本、いない(笑)。近所に仲のいい子がひとりかふたりいたくらい。休みの日も、朝から絵を描いたり、工作してたりで、家から出ないですから。今、ネットで同窓会サイトみたいのがあるじゃないですか。そこで自分の小学校を探してみたんですけど、同級生の名前に記憶がないんですよ(苦笑)。だから、当時のクラスメイトが、雑誌やテレビでインタビューを受けている今の僕を知ったら、きっと驚くと思いますよ。KONAMIに入ったとき、たまたま高校時代の同級生が社内にいたんですけど、その人ですら、僕が同じクラスにいた山岡晃と同一人物だってことがわからなかったって言ってましたからね(笑)」

 山岡さんは、小学校時代の自分を「いろんなことに手を出しては、次に興味を移していく、ちょっと変わり者の子供」だと自己分析する。しかも、ひとりが苦にならない。後に発揮される独立独歩の精神は、家庭環境の影響もあったのかも知れない。

「僕の家系は、普通のサラリーマンがいないんですよ。うちの親父は洋菓子の職人だし、叔父は某ホテルの総料理長をやってる料理の鉄人だし、母方の親戚もみんな料理人。だから、身近でスーツを着て、ネクタイ絞めて会社に通う人を見たことがない。唯一、僕は今、会社員をやってますけど、スーツには縁のない仕事ですから、カタギとは言えないですよね(笑)。親が自営業だったこともあって、あんまり子供をかまわない家庭ではあったでしょうね。あんまりうるさいことも言わないし、僕の自由にさせてくれた。だから、同居していた祖母にはずいぶん可愛がってもらいました。おばあちゃん子だったから、おとなしく育っちゃったのかも知れないですね。  そういえば、小学校を卒業する時に、先生が僕宛てのメッセージをくれたんですよ。“いつまでも、その誠実な心を忘れずに”って。それがどうもおかしくてね。“俺、誠実か?”って、疑問に思ったり。まぁ、クラスではものすごくおとなしかったので、それが誠実っぽく見えたのか……あまりにも喋らない子だったので、他に形容しようがなかったのか(笑)。そのくらい、目立たない子だったんです」

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中学時代〜音楽との出会いでライフスタイルが一変

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 小学校卒業後、山岡さんはそのまま近所の公立中学校に進学。あまりにもおとなし過ぎる小学生時代を過ごした山岡少年は中学で、その反動とも見える「熱い時代」を過ごすことになる。

「自分の過去を思い返すと、誰でもきっと、中学時代の経験が人を作るんだろうなって思うんですよね。12歳から15歳ぐらいで、物の考え方とか思考の仕方ができあがる。僕なんか、思考パターンが中学の頃から未だに変わってないですからね(笑)」

 では、大人になっても変わることのない山岡さんの思考パターンは、中学時代の何をキッカケに作られたのだろうか?

「ここでやっと、僕の今の仕事に関わりのある“音楽”が出てきます(笑)。キッカケはFMラジオでした。中学1年〜2年くらいの頃に、ちょうどYMOが流行りだして、その後に、テクノ、ニューウェーブのブームが来たんですよね。当時はまだインターネットもなかったし、本格的な音楽が観られるテレビ番組も少なかったので、僕はラジオをよく聴いていた。そして、坂本龍一さんがやってた『サウンドストリート』(NHK-FMの音楽情報番組。'81年〜'86年までオンエア)という番組で、ヴィサージというバンドに巡り会ったんですよ」

 山岡さんが運命的な出会いを果たしたヴィサージは、パンク、ニューウェーブが流行った'70年代後半のロンドンで生まれた、“ニューロマンティック”と呼ばれる音楽ムーブメントの先駆けとなったロックバンド。サウンドは、テクノポップの流れを汲んだデジタルミュージック。退廃的で未来的な雰囲気、派手で両性的な化粧を施した先鋭的なビジュアルで世間に衝撃を与えた。ちなみに、このニューロマンティックのムーブメントは、後によりポップ寄りの音楽を志向するデュラン・デュランやカルチャー・クラブなどに受け継がれ、'80年代前半の音楽シーンに世界的なブームを呼ぶ。

「ニューロマンティックのアーティストに惹かれたのは、音楽性はもちろんなんですけど、ビジュアルの部分も大きかった。ずっと美術が好きでしたから、彼らがプロデュースするファッションやアートワークが、すごく魅力的だったんですよね。でもバンドの嗜好としては、世間的にはかなりマニアック。クラシックスヌーヴォー、D.A.F.(ドイチュ-アメリカニシェ・フロイントシャフト)、ウルトラヴォックス、本田恭章……いやー、この記事を読んでる人にはチンプンカンプンですよね(笑)。そのほかに、ヘヴィメタルからもかなり影響受けてはいるんですよ。でも……ヘヴィメタルを好きな一派は、いわゆる不良ちゃんが多くて(笑)。そういう音楽仲間も増えてはいたんですが、僕のライフスタイルという点では、ニューロマンティック、ニューウェーブの音楽のほうが、はるかに影響は大きかったですね」

 その当時、山岡さんには音楽趣味を共有する仲間がひとりいた。それが現在、デビュー10周年を迎えたデジタル音楽ユニット“m.o.v.e”のメンバーであり、プロデューサーであるt-kimuraさんだった。

「kimuraくんとは中学の同学年なんですけど、当時、ふたりで毎日のようにレンタルレコード屋に通って、好きなレコードをダビングしてましたね。でも、僕らが好きだったバンドは、中学生ごときが聴くようなものじゃなかったんです(笑)。周りのみんなは、歌謡曲とかニューミュージックとか、もっとメジャーな音楽を楽しんでいて。僕とkimuraくんだけですよ、“あぁ、あのアルバムのシンセサイザー、カッコいいよね”なんて会話してたのは」

 アーティスティックな興味から、先鋭的な音楽にどんどんのめり込んでいった山岡さん。それが高じて、人とは違うアグレッシブな方向へと彼の気持ちは進んでいった。

「友達みんなでニューミュージックを聴きながら、“こういうのいいよね”ってやるのは、ちょっと違うと思ってましたね。ニューウェーブの人達の世界観って、“いかに人と違うことをするか”に集約されてたんですよ。音楽としてそういうジャンルが好きだったのはもちろんなんですが、ひねくれた面白さを追求する物の考え方が、そこででき上がったような気がします。学校にも不良がいて、奇抜な制服を着て異端視されてましたが、そういう格好も嫌だった。とにかく、周りに同調するのもされるのも嫌だし、おかしなことをしていても、ただの不良としてカテゴライズされるのも嫌。だから僕は、他の子達がやってないニューウェーブ のミュージシャン達の真似をして、黒とか青とかのマニキュアや口紅を塗って、学校に通ってましたよ(笑)。  毎日が、変わったレコードを聴いて、絵を描く日々。当時、新宿に尖った連中が集まる“ツバキハウス”という伝説の店があったんですが、中学生の分際で化粧をして、電車に乗って通い詰めてました。中学3年くらいには、“ZOA”という、非常にコンセプチュアルなバンドも始めましたね。この時代に知り合った連中は、その後プロのミュージシャンになった人も多くて、今でもずっと付き合いがあるんですよ」

 山岡さんは、「今、僕がやってる音楽やアート、デザインの志向は、この時代から始まったんです」と言う。おとなしく、家でコツコツと絵を描いていた小学生時代から一変、奇抜な化粧、ファッションに身を包んで街に繰り出す彼の変化に……。

「家族もそれなりに心配してはいましたが、学校から電話が来ると、注意されるくらいで済んでました。ヘンな遊びはしてましたけど、成績はちゃんとしてましたからね。遊んでる子って、たいてい学校の勉強に身を入れないじゃないですか。成績悪くて当たり前、みたいな。それも嫌だったから、学校の勉強は完璧にしようと、ものすごく勉強しましたよ。学年トップ3に入ったりしてね。だから、メイクしてマニキュアして学校に通ってても文句は言わせない(笑)。押さえるべきところは押さえてるんだから、好きにやらせろって。その発想は、今でも変わってないですね」

 メイクをして夜遊びはするけど、学校は休まず、勉強も一生懸命する。山岡さんは、自分のやりたいことを実現するための努力を惜しまなかった。確かに、一風変わった少年ではあったが、自分が何をしたいかを自覚していた山岡さんの、一本筋の通った生き方は揺らぐことがなかった。

「なんだか音楽の話ばかりになってますけど、ゲームもね、ファミコンとかを普通に遊んでましたよ。ハマったのは『スペランカー』。あのゲーム性が気に入って。でも、遊び方はちょっと普通じゃないかも。よりストイックなゲームプレイをやってみたくて、普通のコントローラではなく、ジョイボールだけでどれだけ遊べるかを追求してました(笑)。他にも『マッハライダー』とか『忍者じゃじゃ丸くん』なんかは、思い出のゲームですね」

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