KONAMIを代表するホラーゲーム『サイレントヒル』シリーズを手がける山岡晃さんは、東京都町田市出身。『サイレントヒル3』からはサウンド・デザイナーとプロデューサーを兼任し、国内外の雑誌や映像メディアで、ユーモアを交えて、闊達なトークを披露する山岡さんの姿を目にしたことのあるゲームファンも多いことだろう。そんな彼の幼少時代は、さぞ活発で明るい子供だったのだろうと想像したのだが、意外にも……?
「僕の子供時代はね、けっこうなオタクでしたよ。スーパーカーのプラモデル作ったり、鉄道模型のNゲージでジオラマ作って遊んだり……アニメのセル画を真似して描いたりとか。当時のアニメは、今みたいにデジタルじゃないから、アニメに使われたセル画を集めるという趣味があったんですよね。集めるだけじゃなく、文房具屋さんに行くと、セル画を描く道具なんかも売ってて、ファンが真似してセル画を描くというのも流行っていたんです。それで、メーテルを描いたりしてましたよ(笑)。もちろん、粘土で工作をするのも好きだったし、ラジコンカーを買ってタミヤの大会にも出ましたし……子供がやりそうなマニアックな趣味は、ひととおり首を突っ込んでました」
プラモデル、鉄道模型、セル画描き、粘土工作のほかにも、漫画を描く趣味もあったという。
「小学校の頃は、将来、漫画家になりたいと思ってましたね。自分でもギャグの4コマ漫画を描いていたんですけど……実は僕、漫画雑誌を一切、読まないんですよね(笑)。漫画誌って、ザラ紙使ってるじゃないですか。僕、まずあれがダメでね。あと、昔っから、コマ割りというのがどうも理解できないんですよね。ページをどう読み進めていけばいいのかが、わからなくなっちゃうんです。唯一、すんなり理解できるのは4コマ漫画(苦笑)。だから、アニメ化された作品は観てるんですけど、原作の漫画本は全く読まなかった。大きくなってからも、『ジョジョ』(『ジョジョの奇妙な冒険』)とかね、みんなが読んでる漫画を全然知らなかったから、知ったふりして人と会話を合わせるのが大変でしたね(笑)」
……と、多趣味な山岡さんは、漫画に限らず、絵を描くことが特に好きだった。
「一生懸命だったのは、美術ですかね。小・中・高校と、学校ではずっと美術部に入ってました。中学時代は、水彩画でちょっとデフォルメしながら、ザクなんかのモビルスーツの絵を描いて、友達に1枚500円で売ったりしてましたね(笑)。だから、子供時代は音楽よりも、絵を描くほうの道をずっと志していたんですよ。その証拠に……これはちょっと後の話になっちゃうんですけど、まだKONAMIに入社する全然前に、『グラディウス』でティザー用のポスターかなにかの絵を一般募集したことがあったんですよね。それに、ビックバイパーか何かの絵を描いて送った覚えがありますよ。しかも、油絵(笑)。ゲームのイメージがSFだから、みんなアクリル画材かなんかを使って、フォトレタッチっぽい作品を送るんだろうと思ったので、意外性をねらってみて。もし、会社のどこかにあの時の応募作品が残ってたら、返して欲しいんだけどなぁ(笑)」
小学生時代の趣味から察すると、どうやら彼はかなりのインドア派。家の外で、友達と遊んだりはしなかったのだろうか?
「友達とわいわい遊んでた記憶は……あんまりないですね。というか、外に出て遊んでた記憶がほとんどない(笑)。非常にわかりやすいオタク少年ですよ。唯一、外に出て身体を動かしていたのが、スピードスケート。キッカケは、昔、親父がそこでスケートをやってたからなんですけどね。小学校5年生から高校まで、オリンピック強化クラブになるくらいの、ちゃんとしたスケートクラブに入っていたんです。今でも、テレビでスピードスケートのオリンピック番組とか観ると、僕が習ってたコーチが映ってたりする。毎週1回、学校の授業が終わってから、僕が住んでた町田からクラブのあった水道橋……後楽園のスケート場まで、真面目に通っていましたね」
スピードスケートのおかげで、オタクではあるが、ただのひ弱な男の子ではなかったという山岡さん。厳しい練習を積み重ねた結果、国体に出場するまでの実力も、礼儀作法も身についた。
「スピードスケートをやったおかげで、ずいぶん鍛えられました。学校にいても、社会人と触れ合う機会って、先生相手くらいじゃないですか。でも、スケートクラブには大学生もいるし、社会人もいるし、スケートのプロの人もいるんです。そういう場所で、体育会系のノリが身につきましたよ。実際はね、辛い経験しかないんですけど(笑)。ケガもよくしましたし。おかげで実力もつきましたよね、練習、厳しかったですから。僕も中学2〜3年の頃には、国体に出場できるまでになりました。
クラブで思い出すのは、個性的なユニフォーム。チーム名は“メリーメント”っていうんですが、 アシスタントコーチの本職が藤子不二雄作品のアニメーターだったので、チームのお揃いのトレーナーがドラえもん柄だったんですよ。25年以上前だからまだ許されたけど、今だったら、絶対やっちゃいけない(笑)。合宿なんかに行くと、他のチームが冷たい視線を浴びせてきて……ものすごく恥ずかしかったのを覚えてますね」
スケートクラブに行かない日は、学校が終わって家に帰ると、プラモデルを作ったり、粘土を買ってきてオブジェを作ったりという日々。スポーツをやっていたといっても、スピードスケートは個人競技で、クラブも家から遠く、同年代の仲良しができる環境でもなかった。
「友達はですね……基本、いない(笑)。近所に仲のいい子がひとりかふたりいたくらい。休みの日も、朝から絵を描いたり、工作してたりで、家から出ないですから。今、ネットで同窓会サイトみたいのがあるじゃないですか。そこで自分の小学校を探してみたんですけど、同級生の名前に記憶がないんですよ(苦笑)。だから、当時のクラスメイトが、雑誌やテレビでインタビューを受けている今の僕を知ったら、きっと驚くと思いますよ。KONAMIに入ったとき、たまたま高校時代の同級生が社内にいたんですけど、その人ですら、僕が同じクラスにいた山岡晃と同一人物だってことがわからなかったって言ってましたからね(笑)」
山岡さんは、小学校時代の自分を「いろんなことに手を出しては、次に興味を移していく、ちょっと変わり者の子供」だと自己分析する。しかも、ひとりが苦にならない。後に発揮される独立独歩の精神は、家庭環境の影響もあったのかも知れない。
「僕の家系は、普通のサラリーマンがいないんですよ。うちの親父は洋菓子の職人だし、叔父は某ホテルの総料理長をやってる料理の鉄人だし、母方の親戚もみんな料理人。だから、身近でスーツを着て、ネクタイ絞めて会社に通う人を見たことがない。唯一、僕は今、会社員をやってますけど、スーツには縁のない仕事ですから、カタギとは言えないですよね(笑)。親が自営業だったこともあって、あんまり子供をかまわない家庭ではあったでしょうね。あんまりうるさいことも言わないし、僕の自由にさせてくれた。だから、同居していた祖母にはずいぶん可愛がってもらいました。おばあちゃん子だったから、おとなしく育っちゃったのかも知れないですね。 そういえば、小学校を卒業する時に、先生が僕宛てのメッセージをくれたんですよ。“いつまでも、その誠実な心を忘れずに”って。それがどうもおかしくてね。“俺、誠実か?”って、疑問に思ったり。まぁ、クラスではものすごくおとなしかったので、それが誠実っぽく見えたのか……あまりにも喋らない子だったので、他に形容しようがなかったのか(笑)。そのくらい、目立たない子だったんです」 |