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その場限りではなく、ファンに永く愛される商品を作り続けたい。それが私のいちばんの願いです。 新川 宗平
 

個性的な作品をつくり出す注目のゲームクリエイターに“あなたができるまで”を訊くロングインタビュー企画「THE EARLY DAYS」。今月は、熱狂的なファンを持つ『魔界戦記ディスガイア』シリーズ、『流行り神』シリーズなど、個性的な作品のシナリオライター、プロデューサーとして活躍する新川宗平さんをゲストにお迎えした。もともとゲーム好きではあったが、将来は考古学者になろうと進路を決めていた新川さんは、大学時代にプレイした1本のRPGをキッカケにゲーム業界へと足を踏み入れる。彼が手がけたタイトルの開発秘話、1月31日に発売されたばかりの最新作、PS3®『魔界戦記ディスガイア3』の見どころと共に、さまざまな偶然と必然が重なった新川さんの半生をお届けする。

取材・文/阿部美香(ライター)
 

小学校時代〜将来の夢はゲームプログラマーだった!?

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 日本一ソフトウェアで、人気シリーズのシナリオライター、プロデューサーとして活躍する新川宗平さんは、1973年、大阪府寝屋川市で生まれた。現在、同社の取締役であり、開発部隊を統括する部長という要職に就いている新川さんは、落ち着いた物腰で柔らかな語り口が魅力のジェントルな男性だが、小さい頃は活発でヤンチャな子供だったという。

「けっこう昔から運動が好きでしたね。家の裏がドブ川だったので、もし川に落ちても助かるようにと通わされていた水泳は、3歳から小学校低学年まで習わされてて。小学校時代はけっこう、習い事をたくさんやっていましたね。水泳以外にも、習字、そろばん、少年野球、少年サッカー、空手……。いちばん長く続けたのは水泳でしたが、それ以外はどれも長く続きませんでしたね。“友達がやってて楽しそうだから”という理由で始めた習い事も多かったので、あれこれ、広く浅くつまんでいました。とりあえず、何でも気になったらやってみる子供でしたよ(笑)」

 彼が高校時代までを過ごした寝屋川市は、大阪市中心からほど近いベッドタウン。「今でもニュースになるような事件が起こる。あまり治安のいい街ではないんです」と新川さんは苦笑する。そんな街で?

「みんなで騒いでいるのが楽しくて、活発な子が集まるグループの一員でした。外で走り回ったりするのが好きで、友達同士ではよく、知らない場所を訪れては探検ごっこをして遊んでました。“冒険”とか“チャレンジ”という言葉が似合う感じですね。探検といっても、いろいろやってたんですが……近所に建築中の家があれば、とりあえず窓を開けて入り込んで、間取りを見てみるとか(笑)。それ以上の悪いことは、さすがにしてませんけどね」

 では学校での勉強は?

「あまり好きではなかったです(笑)。習字やそろばんを習ってたといっても、友達と一緒に通うのが楽しかっただけで、習字を書くことやそろばんに興味があるわけじゃなかったですから。塾にも通いましたけど……それも友達との遊びの延長なので、残念ながら、成績にはあまり影響なかったです」

 面白そうなことには、とりあえず首を突っ込んでいた新川さん。そんな彼が、今の職業への布石となる“ゲーム”と出会ったのは、小学校3年生頃のことだった。

「外で遊ぶのは好きでしたが、家ではゲームをよく遊んでました。ファミコンが発売されたのは小学校3年生頃。その前から、家庭用の『ブロックくずし』ゲームや『ゲーム&ウオッチ』(任天堂)、『ぴゅう太』(トミー/現タカラトミー)も持ってましたし……高学年になるとMSXも持っていました。まだ、ゲームソフトをテープでロードしていた時代ですね。従兄弟がコンピュータ好きだったので、その影響もあって買ってもらったんですけど……もっぱらゲームマシンとしてしか使ってませんでした」

 それからかなりのゲーム好きとなった新川さんには、面白い思い出がある。ゲームクリエイターになってから、たまたま実家で、小学校時代に書いた“未来の自分への手紙”を見つけて読んでみると、そこには「ゲームのプログラマーになりたい」と書いてあったというのだ。

「その時代から、ゲーム畑には行きたかったみたいですね。自分ではすっかり忘れてましたけど(笑)。MSXを買うより前にも、ファミリーベーシックで遊んだりしてたので、かなりのゲーム好きだったことは確かですね。ちょうど当時は、ゲームプログラマーという職種がクローズアップされた時代。プログラマーが絵も描いて、ゲームを1本作れるんだというイメージがありました。ハドソンの高橋名人(高橋利幸氏)やバンダイの橋本名人(橋本真司氏。現スクウェア・エニックス)もスターでしたよね。プログラマーに憧れた私は、完全自作とまではいきませんが、雑誌に掲載されたプログラムを打ち込んだり、プログラマーの真似事を楽しんでいました」

 そこで、当時好きだったゲームタイトルを挙げてもらうと?

「最初に遊んだファミコンソフトは『ベースボール』(任天堂)。ちょうど少年野球をやってた頃ですね。友達の家で遊んだ『ベースボール』が面白くて、父親に“一緒に野球ゲームを遊ぼう”という理由付けをして買わせました(笑)。父親とは……1回、2回遊んで終わりでしたけどね。そこから、『スーパーマリオブラザーズ』にハマり。いちばん好きだったのは、『ギャラクシアン』と『ゼビウス』でしたね。家の近くに駄菓子屋があって、そこで10円、20円で遊ぶゲームにシューティングが多かったので、当時はシューティング好きでした。ただし、好きなのは縦スクロールのみ。横スクロールのシューティングは、今でも苦手です(苦笑)。
MSXで遊んだゲームでは、アドベンチャーゲームが好きだったので、『スナッチャー』(コナミ)、『ジーザス』(旧エニックス/現スクウェア・エニックス)とか。……あとは、当時パソコンソフトもレンタルができたので、いろんなソフトを借りてきて遊んでました。テープのローディング音がうるさかったのをよく覚えてますね(笑)。MSXはその後も、中学時代……高校に入るくらいまで遊んでましたね」

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中学校時代〜アニメと映画と受験勉強と

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 特別に何が、という思い出はないが、毎日が楽しくてしょうがなかった小学生時代。「中学校に上がって最大の変化は?」と新川さんに尋ねると。

「眼鏡をかけたこと、ですかね(笑)。ゲームもそうですけど、漫画や少年向けの冒険小説・探検小説をよく読んでいたものですから。自分で近所を探検するのも好きでしたが、本でも探検物を。漫画だと、自分が野球少年だったので『キャプテン』とか。あとは『週刊少年ジャンプ』物ですね。当時は『北斗の拳』『Dr.スランプ』『キン肉マン』。今でも漫画はめちゃくちゃ買いますよ」

 漫画好きが高じて、アニメをよく観るようになったのも中学時代から。アニメに深く触れるキッカケとなった作品は、小学校高学年の時に劇場公開された『風の谷のナウシカ』だったそうだ。

「日曜日のアニメは欠かさず観てました。『とんでも戦士ムテキング』なんかは、よく覚えてますね。もちろんロボット物、『機動戦士ガンダム』も観てましたし、漫画、アニメ……オタク的なモノはひととおり。あとは、映画がとても好きでした。小学生時代は、ジャッキー・チェンなんかのカンフー映画ばっかり観ていたんですけど、中学生からはほかのジャンルも。特にホラーが好きになり、ひとりで梅田の映画館まで行ったりしましたね。梅田まで行くと、旭屋書店や紀伊國屋書店などの大きな書店もあるので、本を買いだめに行ってました」

 好きな映画は『ターミネーター』、ホラー映画で印象的だったのは『死霊のはらわた』『バタリアン』など。読書の趣味のほうでは、コナン・ドイル、アガサ・クリスティ、ガストン・ルルー、A.A.ミルン、ジョン・ディクスン・カーなど、海外の本格推理小説がお気に入りだった。

「でも、基本はオタク系。京橋のアニメイトに通ってましたからね(笑)。友達と一緒にポスター買いに行って、部屋に貼ってましたよ。今思えば、けっこう恥ずかしい……『めぞん一刻』とか『うる星やつら』とか。どっから見ても、オタクの部屋でした(笑)。高橋留美子さんの漫画は大好きでしたね」

 では、中学ではどんな少年だったのか?

「部活はバレーボール。友達が入るというので、流されて(笑)。私の中学校は、グラウンドがものすごく狭かったので、野球部もサッカー部もなかったんです。だから、男子はバスケットかバレーかテニスか、3勢力しか選べない。ですから、毎日部活には行くんですけど、行って練習をさぼってるタイプでした」

 部活はそこそこ。では勉強は?

「勉強は、ほとんどしませんでした。だから、すごいバカやったんですよ。中学に入った時の最初のテストで、なんやわかりませんけど英語で100点を取ってしまい、“あぁ、このままでええんや”と全く勉強しなくなっちゃったんです。このままではヤバイと思ったのは、中学2年の終わりくらい。人に言われて初めて気づきました。その時、もう成績はかなり下のほうやったんですけどね(苦笑)。高校に行けないことはない成績ではあったんですが、行けたとしても、悪い人たちの集まる高校になってしまう。中学自体、けっこう悪い人たちの集まりだし、小学校時代からの友達もだんだん不良化していったので、そんな学校はもういややと思いました(笑)」

 そこから、新川さんは猛勉強を始めた。学校から帰宅すると、すぐに机に向かい、気がついたら明け方ということもよくあったという。ところが、あまりにも急激に頭に知識を詰め込んだせいか?

「当時、勉強以外にやったこと、起こったことを何も覚えていないんですよね(笑)。あとで友達に、“あの頃、こんなことあったよな?”と言われても、本当に何も覚えてないんです。“お前、冷たいやっちゃなぁ”とすごく責められました。たぶん、記憶容量が小さいんですよね。ひとつのことに集中し始めると、ほかのことは覚えられない。今もそうなんですけど、覚えんでええことは、全く覚えないたちなんです。そのほうが、幸せでしょう?(笑)」

 その甲斐あって、成績もぐんぐん上昇。陰で新川さんの将来を心配していた親御さんも、ホッと胸をなでおろし、いよいよ進学先を決める段になり?

「あまりにも一生懸命に勉強しすぎたので、もう二度と同じことをしたくなかった。なので、大学受験をしないで済む高校に進むことにしました」

 そこで選んだのが、枚方市にあった東海大学の付属校である東海大付属仰星高等学校。無理せず入れる難易度で、校舎も新しくキレイで、通学時間も家から電車で40分程度と、新川さんにとって好条件が揃っていた。

「もうひとつ、そこを選んだ理由がありまして。高校を出たら、ひとり暮らしがしたかったんですよ。親も、若いうちにひとり暮らしをしておくべきだと考えていたものですから、大学は実家を離れた場所にあるほうが都合がよかった。東海大学なら、神奈川に行かざるを得ないですから、それも私にとっていい条件だったんですよね」

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