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グッとくるポイントを掴んで、そこにこだわる。「ミーハーであれ!」が、僕の強みだと思います。 三戸 亮

大学時代〜最後の自由時間にゲーム熱が復活

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 辛い受験勉強を乗り越えて、念願の大学生活をスタートした三戸さん。さぞ、新生活にやる気満々だったかと思いきや、当時の心境は……。

「希望に燃えていたというよりは……もう勉強しなくて済むな、というのが本音(笑)。それまで1日何時間も勉強してたんで、これでようやく開放されるという喜びが大きかったですね。だから、授業に全然出なくなっちゃって(苦笑)。
 最初の1週間は真面目に通ってたんですけど……大学の講義って1コマ1時間半あるんですよね。高校は50分くらいじゃないですか。全然、集中力が持たないんですよ。講義をやるのもだだっ広い部屋だし、一方的に教授が話を進めていくし、ただ長くてつまらない時間が過ぎていくだけ。それがイヤで、2週間目から授業に出なくなりました。また、僕の行ってた政治経済学部というのが、必修の語学以外は、出席もロクに取らない。それをいいことに、大学に行ってもサークルに入り浸る毎日になってしまいました」

 三戸さんが選んだサークルは、マンドリン部。また、なぜマンドリンを?

「キッカケは、サークル巡り。早稲田って、めちゃめちゃいっぱいサークルがあるんですよね。で、どれが面白そうかと、入学式で知り合った友達と一緒に、サークル巡りをすることにしたんです。とりあえず、その友達はマスコミ系のサークルに入りたいというので、それを見に行ったら、そこで別のヤツと知り合って、今度はそいつと一緒に回ることになったんです。そうしたら、彼は音楽に興味があるというんです。そこで、マンドリン部のガイダンスを見に行ったら、けっこう雰囲気もいいし、昔ピアノをやっていたから僕も音符くらいは読めるし、新しい趣味にするにはいいかなぁと思って。
 同じ楽器でも、ヴァイオリンとかだと子供の頃からやってないと無理じゃないですか。でも、マンドリンはマイナーゆえに、サークルも初心者が多い。これなら僕でも大丈夫だと思ったんですよ。結果的には、また友達に流されて入っちゃったようなものなんですけどね(笑)」

 そこで初めて触ったマンドリンに、三戸さんは夢中になった。

「マンドリンって、仲間の楽器が何種類かあって、オーケストラのように合奏形式で演奏するんですよ。何種類かのマンドリンと、フルート、クラリネット、ギター、コントラバスという編成で。友達もたくさんできるし、演奏していても一体感があって楽しい。僕が1年の時は60人くらいでしたが、卒業するくらいの時は90人くらいいましたからね。だから、部室に入り浸るようになるわけですよ。ダメな大学生パターンですね(笑)」

 大学内のホールを使った練習時間以外は、サークルの部室でうだうだと過ごす毎日。こうして、三戸さんの大学生活は、マンドリン部を中心に回っていった。

「朝から夕方まで、楽器を手に、友達同士で同じような話をうだうだしてましたね(笑)。毎日のようにみんなで飯を食ったり、飲みに行ったり。しかも、3年から学校から歩いて10分くらいのところでひとり暮らしを始めたので、ダメさ加減にも拍車がかかってしまい。夜中まで起きてて、寝て、昼前くらいに一度目が覚めるんですけど、もうちょっと寝ておこうと思って二度寝をして、昼過ぎに起きて、ご飯を食べてそのまま部室に直行。そこでダラダラして、夕方からはマンドリン合奏の練習。その後は、ダラダラと飯を食いながら2〜3時間友達と話して、家に帰ってテレビを観たりゲームをしたりしてると……気づいたら夜中ですよ(笑)。その繰り返しでした。
 だから、単位もいつもギリギリで。サークル活動をしてると、だいたいは先輩から情報が回ってきたりするんですが、マンドリン部には同じ学部の先輩がいないし、講義にも出てないので学部に友達も少ない。あれには困りましたね。ありとあらゆる手を使って、なんとか乗り切りましたけど、4年の時はホントにヤバかったです(苦笑)」

 大学時代は「そんな生活だから、ヒマだけはたくさんありました」と、三戸さん。

「マンドリン部以外にやっていたことといえば……バイトと麻雀ですかね。バイトは、家庭教師や東京駅の構内にあるラーメン屋さんのウエイター。忙しい店だったので、時給も1000円もらえたんです。わりがよかったので、2年ほどやってました。でも、ひとり暮らしを始めてからは金がなくて、けっこう食費を切り詰めてた思い出がありますね。麻雀は、サークルの友達から教わりました。一時期は、週に3日くらい雀荘に通い詰めて、徹夜したり(笑)」

 自由な時間が増えたため、ゲーム熱も復活した。

「大学3年でひとり暮らしを始めたのが大きかったですね。高校時代の後半は勉強が忙しかったし、大学の最初のうちも、新しい生活が面白くなっていたので、たまにゲーセンに行く以外は、ずっとゲームから離れていたんですが、『ドラクエVII』をキッカケに、またゲームを始めました。『ドラクエ』がやりたかったという理由で、PSを購入したんです。たぶん、TVのCMを観て、やりたくなったんでしょう。100時間くらい遊びましたよ。  PSしか持っていなかったので、他によく遊んだゲームは、『パラッパラッパー』『ウンジャマ・ラミー』(以上、SCE)。これは、友達同士でも盛り上がりましたね。あとはキャラクター物も。『ドラゴンボールZ Ultimate Battle 22』とか、『SDガンダム GGENERATION』シリーズ(以上、バンダイ)とか」

 これだけ遊びに熱を入れていたのも、三戸さんなりの考えがあったから。

「就職しちゃったら、そんなこともできなくなる。大学時代が最後の自由時間と思って、この4年間だけは楽しく過ごしたかったんです。だから、時期が来たら就活もしっかりやりました。3年になってからは就職を意識していろいろ調べてもいたので、スタートダッシュはよかったですね」

 その時に、三戸さんが考えた進路は?

「銀行とか証券会社とか保険業界とか、お堅い会社には行きたくなかった。カジュアルな会社を目指してましたね。就活が早くスタートするのが外食産業だったので、まずそれを受けてみて、ファーストフードの企業から早々と内定をもらえたんです。そこで、仕事にあぶれることはなくなったと安心して、好きな企業だけをねらって受けようと思いました。テレビ局、雑誌社、オモチャ会社、ゲームメーカー……。その中に、バンダイがあったんです。当時、バンダイは何回かに分けて試験があって、運良くいちばん最初の試験で内定がもらえた。大学4年の4月には、バンダイに入ることに決めました。
 僕としては、ゲームメーカーもいくつか受けてみようと思っていたんですが、プログラミングができるわけでもないし、根っからの文系だし(笑)。ゲームオンリーの会社は受けづらい。エントリーシートもいくつか出してはみましたが、試験を受ける前にバンダイから内定をもらってしまったし、バンダイならゲームの仕事にも関われそうだしという理由で、他を受けるのを止めてしまったんです」

 三戸さんが、書いたことを忘れていたという小学校の卒業文集を思い出すまでもなく、子供時代から、オモチャやゲームを通じてバンダイというメーカーに慣れ親しんでいたことも、その決断を後押しした。

「そういう意味でも、本当に運がよかったんだと思うんですよ。当時は就職状況も厳しくて、バンダイに入社した同期もほんの20人ほどしかいなかった。前後5年間くらいでは、いちばん採用の少ない年でしたね」

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バンダイ入社〜転機となった『ドラゴンボールZ Sparking!』

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 こうして、01年、三戸さんはバンダイに入社。大学卒業を機に、貯金もなかった三戸さんはふたたび実家に戻り、横浜からバンダイ本社のある浅草へと通うようになった。さて、社会人1年目。バンダイでは、最初の1年は社員研修の一環として、トイショップなどを回る営業活動をさせられた。三戸さんにとって、その修行期間はどうだったのだろう?

「いやぁ、とにかく大変でしたよ。大学時代、かなり堕落した生活をしてましたからね(笑)。実家から通うようになったので、中学・高校時代のように、また朝6時頃起きて通勤ですよ。夜も仕事で遅くなるし、そんな規則正しい生活が、めちゃくちゃ疲れました(笑)。
 僕の仕事内容も、東京、神奈川、静岡、愛知くらいまで、量販店やオモチャの専門店を10店舗ほど担当して、担当者の方からクレームなどを聞くのが主でしたから、精神的にも疲れる。辛辣なこともいろいろ言われました」

 その1年間が終わると、どの部署で働きたいかの希望を出せる。三戸さんが選んだのは、もちろんビデオゲーム事業部だった。

「不思議なことに、ゲーム事業部を希望したのは僕ひとり。やっぱり、そこはバンダイですからね、みんなトイやガシャポンやカードダスを扱うベンダー事業をやりたいわけですよ。だから、すんなり希望が通ってしまいました」

 当時、バンダイのビデオゲーム事業部の社屋だけは、浅草の本社ではなく東中野にあった。

「だからなんとなく、社内でも独自の部署という感じはありましたね。新入社員もあまり取っていなかったので、僕の2期上に後藤(能孝)さん(FILE.09/バンダイ『ガンダム無双』プロデューサー)の同期の方が3人ほどいて、その上はまた4〜5年空いている。だから、僕はいちおう、待望の若手だったんです(笑)。入ってみたら、部署の期待が高すぎて、ガッカリされた感じもありましたけどね(爆笑)」

 というのは三戸さんの冗談としても、もともとリリースタイトルが多いバンダイのビデオゲーム事業部は、慢性の人手不足に悩まされていた。FILE.09でこの企画に登場していただいた、バンダイ後藤能孝プロデューサーの言葉にもあったが、とにかくビデオゲーム事業部の新人は、雑用を一手に引き受けることからキャリアをスタートする。三戸さんも、その過酷な業務の洗礼を受けた。

「うーん……確かに慣れるまでは大変でしたね。同期もいないし、それまで本社で過ごしていたので、知ってる人も誰ひとりいない。みんなが忙しくて、新人に手間をかけている余裕もないし、僕のほうも最初のうちは与えられた仕事をこなすので精一杯だったんです。机にポツンと座って、黙々と仕事をしていたので、ずいぶん大人しい男と思われていたみたいですよ。
 部内で配属されたのも、いきなりのジャンプキャラクターチーム。3人のプロデューサーの上司それぞれのアシスタントを務めることになったので、雑用を含めて仕事はいくらでもありました。いちばん辛かったのは、具体的な業務内容というよりは、精神的な部分ですね。ヒット作が多いチームだったので、売れるタイトル、ユーザーに満足してもらえるタイトルを作るためにどうしたらいいかということを、厳しく教えられました」

 そんな厳しい指導もあって、比較的早い段階で念願の開発職に就くことができた三戸さんは、入社3年目にして、04年に発売されたPS2『シャーマンキング ふんばりスピリッツ』で、プロデューサーとしてのデビューを果たす。

『シャーマンキング
ふんばりスピリッツ』

「やっぱり、最初のタイトルは大変でした。上司にはかなりダメ出しもされて。でも、今あのゲームを見返すと、一生懸命考えて作ってるところもあって、未熟ながらも頑張ったなぁと思えますけどね(苦笑)。
 そこからは、かなり多くのタイトルを持っていきました。僕の直属の上司は、『ドラゴンボール』シリーズをずっとプロデュースしてきた内山(大輔)さんだったんですが、内山さんは非常に厳しい方だったし、『ドラゴンボール』以外にも、『.hack//』シリーズなどの大作をたくさん抱えていたので、とにかく忙しい。だから必然的に、内山さんに頼らず、自分でどんどん仕事を進めていかないとダメでした。“会議に出ても発言しなかったらいる意味がない”“1本でも多くゲームを開発して自分の食いぶちを稼がないと、会社にとっては不必要”と厳しく言われ、いつも新しい企画を考えて、その企画を実現できるようにと、がむしゃらに頑張ってましたね。けっこう無茶しながら。ただ、大きなセールスには、なかなか結びつけられなかった。ちょっと悶々としてましたね」

 その状況を打破したのが、三戸さんが幼い頃から大好きな『ドラゴンボール』だった。05年2月に発売されたPS2『ドラゴンボールZ3』までプロデュースを手がけていた内山さんからシリーズを引き継いだ三戸さんは、『ドラゴンボールZ』の新シリーズの立ち上げに全精力を傾けた。

『ドラゴンボールZ Sparking!』

「そこで生まれたのが、05年10月に発売した『ドラゴンボールZ Sparking!』でした。それまで、これはというヒットがなかった僕だったんですが、内山さんがバンダイの花形タイトルである『ドラゴンボール』をやってみるか? と言ってくださって。ただ、会社としては、『ドラゴンボール』でコケるわけにはいかないので、いろんな方面からのプレッシャーも、かなりのものでした。僕も、そのプレッシャーに負けないようにと、企画から力を込めて、ひたすら頑張りましたね」

 キャラクター人気があったことも確かだが、3Dフィールドでの格闘アクションという新システムを盛り込んだ『ドラゴンボールZ Sparking!』は、ユーザーにも大好評を博した。その結果、三戸さんの初プロデュース作は、60万本を越える大ヒットを記録。『ドラゴンボールZ Sparking!』シリーズを筆頭に、三戸さんは、今では一度に6本から7本のタイトルを抱える売れっ子プロデューサーになっていった。これは、バンダイナムコゲームスの中でも、破格のタイトル数だという。

「そこから、たくさんのタイトルをやらせてもらえるようになりましたが、やっぱりいちばん思い出深いのは、『ドラゴンボールZ Sparking!』ですよね。新シリーズということもあり、開発は3Dゲーム作りや多くのキャラクターを扱うのが得意なスパイクさんにお願いしたんですが、それもバンダイにとっては初めてのコラボレーション。実績あるスパイクさんの開発チームに、ポッと出の僕が行ったものですから、あちらにとっても、かなり不安な状況ですよね。スタッフも僕より年上の方ばかりだし、それでもプロデューサーとして仕切っていかなければならない。しかも先方も、キャラクターゲームを手がけるのは初めてだったんです。お互い勝手が違って衝突したこともありますし、当時はバンダイでも僕はいちばん下っ端でしたから、全部をひとりで何とかしなければならなかったんです。
 そんな初めてづくしの苦労の中で、開発も終盤に向かってくると、内容もかなりいいものに仕上がってきた。最後に、ひとり深夜にゲームをチェックしていて、スタッフロールが流れる場面を見たときは、“あぁ、できた!”という感動もそれまで以上で。さすがに涙は流しませんでしたけど(笑)、モニターをぼんやり見ながら放心した覚えはあります」

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