自分ひとりで“終わりかどうか”の線引きをしない。諦めずに粘れば、きっと道は拓けます! 西沢 学
 

個性的な作品をつくり出す注目のゲームクリエイターに“あなたができるまで”を訊くロングインタビュー企画「THE EARLY DAYS」。今月は、SCEのユニークな地図エンタテインメントソフト、PSP®『ニッポンのあそこで™』を手がけた西沢学さんをゲストにお迎えした。自然に恵まれた土地で、ゲームと釣りに夢中な子供時代を過ごした西沢さんは、思いがけぬキッカケでゲーム業界の門を叩き、その後SCEに入社。いくつかの挫折を経ながらも、他にはない斬新なゲーム作りに携わってきた。そんな西沢さんの半生とは? さらに、数あるPSP®タイトルの中でもひときわユニークな最新作『ニッポンのあそこで™』の開発秘話と、オススメの遊び方もじっくりと語ってもらった。

取材・文/阿部美香(ライター)
 

小学校時代〜ゲームと釣りとサッカーと

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 3Dの日本地図上で、遊ぶ。これまでの常識を覆す、ユニークなPSP®ソフト『ニッポンのあそこで™』のディレクションとゲームデザインを手がけた西沢学さんが生まれたのは福岡県。そこから、1歳にならずしてすぐに奈良県奈良市に引っ越し、小学校5年生までを過ごした。

「奈良の記憶は……やっぱり寺ですか(笑)。ちょうど住んでいた家が、唐招提寺と薬師寺の中間あたりにありまして、市内ではあるんですけど、当時はまだまわりに田畑が残る穏やかな地域でしたね。だから、基本的に外で遊んでて、先生に隠れてゲームセンターに通う小学生でした。学校ではゲームセンター通いが禁止されていたんです。けっこう、学校の近所は見回りも厳しかったので、最寄り駅から電車で少し先の大和西大寺のデパートまで行って、『ギャラクシアン』(ナムコ)を遊んでました」

 1973年生まれの西沢さんは、ジャストなファミコン世代。だが?

「まだ家にはファミコンがなかったので、僕にとってはアーケードがメインマシンでした(笑)。家庭用のゲームを初めて触ったのは、小学校3〜4年くらい。金持ちの友達の家にあった「カセットビジョン」(エポック社)ですかね。それを持っていたのはクラスにひとりかふたり。しかも、その子と仲がいいとは限らない。なので、たまに遊びに行って触らせてもらう程度。それが、ビデオゲームの初体験だったと思います」

 そこで西沢さんが、自由にゲームを遊んでいたのがアーケードゲーム。とはいえ、小学生の小遣いはたかが知れている。週に1回、塾の帰りにゲームセンターに行くのが楽しみだったと、西沢さんはいう。

「だから当時は、『ギャラクシアン』しかやってないんですよ(笑)。シューティングが好きという理由もありましたが、遊んでた場所がデパートのゲームセンターなので、品揃えもよくなかったし、他に置いてあったシューティングといえば『スペースインベーダー』(タイトー)くらい。でも、あれは画面がモノクロだったので、色のついてる『ギャラクシアン』のほうがやって楽しい。しかも、意外に1コインで長く遊べるので、コストパフォーマンスを計算すると、ね(笑)」

 そこから西沢さん一家は、彼が小学6年に上がる時、ひとり暮らしの祖母の面倒を見るため、父親の実家があった滋賀県に引っ越す。越した先は、広大な琵琶湖を臨む滋賀県北西側にある高島市。京都から北東に延び、琵琶湖の西側を這うように続くJR湖西線・安曇川が最寄り駅だった。安曇川は、長浜市と湖を挟んだ反対側に位置する、静かな町だ。

「それこそ、『ニッポンのあそこで™』で調べてもらえばすぐにわかります。高島市自体が、すっごい田舎。クマも出るし、サルも出る(笑)。」

 そんな雄大な自然に囲まれた高島市で、西沢さんはアウトドア三昧の少年期を過ごした。

「家のまわりにも何もなくて、一面水田だらけ。向かいが山で、奥は川で、ちょっと出ると琵琶湖があって。『ぼくのなつやすみ』を地でいくような土地でした。引っ越していちばんびっくりしたのが、通うことになった小学校。奈良時代はマンモス校で、1学年に45人クラスが10くらいあったんです。ところが、安曇川に着いて小学校に行ってみたら、教室のクラス名が書かれているはずの看板に、“6年”としか書かれてないんですよ。組の名前がない。いちおう30人はいたんですが、1学年で1クラスなんだと驚いて、低学年の教室を見に行ったら、今度は“1・2年”と書いてある(笑)。そこは生徒も2学年で3人しかいなかった。ちょっと可哀想でしたね。今でも、その小学校は健在なんですけど、地域に若者がいなくて困ってるみたいです」

 西沢さんがいちばん好きだったアウトドア遊びは、河原遊び。

「近所を流れている安曇川が、とても素晴らしい川で(笑)。夏には、京阪神からたくさんの釣り人が、鮎釣りにやってくる名所なんですよ。河原遊びは、基本的に、魚を捕ってバーベキューをするまでがワンセット。キャッチ&リリースじゃなくて、キャッチ&イートですね(笑)。掴まえる方法もいろいろです。普通に“釣る”、川に潜ってモリで“突く”、特殊な漁法としては“引っ掛ける”というものありますね。2mくらいの竹竿にギャング針を付けて、魚の体に引っ掛ける。すると、針が延びて釣り糸状態になって……というやり方です。
 いちばんの狙い目は鮎。食べてもいちばん美味しいですし。鮎は弱い魚で、餌釣りができないので、そういう変わった捕り方をするんです。そのうち、慣れてくると投網も使い出しますね。1匹ずつでは埒があかないと(笑)」

 そんな恵まれた自然環境のおかげで、西沢さんはすっかり釣りマニアになってしまった。

「もちろん、琵琶湖がありますから、ブラックバスも釣りました。僕、初めて新聞に名前が載ったのは、中学校時代に参加した、地元のブラックバス釣り大会だったんです。京阪神から250人くらい集まる大イベント。中学生は普通、ジュニアの部に参加するんですが、それではつまらないので、一般の部に出場しまして。一定時間の総重量を競う一般の部で4位に入りました。輝かしい思い出ですね(笑)」

 ソフトをご存じの方にはピンとくる釣りの話は、『ニッポンのあそこで™』にも繋がる思い出だが……とりあえずは先を急ごう。豊かな自然の中で過ごした小学校時代、アウトドア以外の思い出というと?

「春〜秋までは、外で釣りをするのもいいですが、問題は冬。冬になると、本当に何もすることがない土地なんですよ。そこで、ゲーム機を買うことにしたんです。初めて買ったのは、セガのSG-1000IIと『セガ・ギャラガ』(セガ)。友達は誰もまだ家庭用ゲーム機を持ってなかったので、クラスに初めて登場したゲーム機がコレ。もう大人気ですよ(笑)。 そのうち、友達のひとりがファミコンと『スーパーマリオブラザーズ』(任天堂)を手に入れて、セガ対任天堂の戦いが繰り広げられることになったんです(笑)。最初は『ギャラガ』が人気だったんですけど、そのうち『マリオ』に負けそうになった。そこで僕が投入したのが『ジッピーレース』(アイレム)。それがまた大人気を呼んで、友達も続々、SG-1000IIを買い出しました」

 そんな、ゲームをクラスに広めた人気者・西沢さんは、当時の自分を振り返ってこう語る。

「勉強のほうも、その学校では成績もよくて。奈良にいた頃にマンモス校で鍛えられたせいか、安曇川の学校は授業もずいぶんのんびりしてて。教えてることも奈良の小学校で1年前に習った内容だったんですよ。だから、勉強しなくても成績はトップ。奈良でサッカーをやっていた僕は、『キャプテン翼』ブームにもバッチリはまっていた。しかも、みんなが坊主頭なのに、転校生の僕は髪型もふさふさ(笑)。そこの学校での僕は、まさに“スーパー小学生”だったんですよ。いちばんのモテ期でしたね」

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中学生時代〜新発売ゲームを遊び尽くす

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 小学生で我が世の春を早々に迎えた西沢さんは、30人のクラスメイトと共に、坊主頭が強制だったという地元の中学校に入学する。さすがに中学では、ほかの小学校からの生徒も合流し、1学年7クラスと大規模に。

「いきなり人数が増えましたね。中学になると、通学圏がすごい広い範囲に拡大しますからね(笑)。僕は、自転車で20分くらいかけて通ってました。ちなみに、小学校時代はスクールバスだったんですよ。小さな子供が歩いて通うには遠すぎるんで。だから、バスに乗り遅れると、もうその日は休むしかなかったですね(笑)」

  さて、そんな西沢さんの中学校時代の思い出は?

「えー……相変わらず、釣り・サッカー・ゲームですね。ただひとつ変わったのは、セガから任天堂に浮気したことですかね?(笑) キッカケは『ゼルダの伝説』(任天堂)です。『ゼル伝』がやりたかったのと、親父と賭けをして勝ったので、ファミコンとディスクシステムを買ってもらったんですよ。もちろん、セガも大好きだったので、セガ・マークIIIも買いましたけどね。『ゼルダ』以外に好きだったゲームは、ナムコ、コナミ系ですね。『ドルアーガの塔』(ナムコ)、『悪魔城ドラキュラ』(コナミ)なんか、最高でしたね。それに限らず、出るタイトルはひととおり遊んでました」

 出るゲームはひととおり? それほどに、たくさん買ってもらえた?

「いや、そうじゃないんです(笑)。僕の隣の家に酒屋の兄弟がいたんですけど、その兄貴のほうが、町内に唯一あったオモチャ屋のおじいちゃんと結託してまして、新作ゲームが出ると、ちょっとしたレビューをしてあげてたんですよ。試しに遊んでみて、面白かったら買い取ると。その動作チェックに(笑)、僕も参加させてもらってたので、新作はたいてい試遊できたんです。田舎町ならではの、素晴らしいシステムでしたね」

 「ほかに、中学で自慢できることと言っても……サッカー部のキャプテンだったことくらい?」という西沢さん。では、そこでもモテモテで?

「最大のモテ期は、その前で終わっちゃってましたからねぇ(笑)。いちおう、女の子に声掛けられたりはしましたけど……意中の子からじゃなかったので、素敵な思い出も特になく。手紙のやり取りをしていた、デート回数0回という彼女らしき女の子はいたんですけど……それだけで終わっちゃいました」

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高校時代〜憧れの先輩とのアウトドアライフ

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 そして、西沢さんは順調に高校に進学する。受験したのは、地元の県立安曇川高校だった。

「なんせ田舎なので、私立高校がなかったですから、高島市内での高校の選択肢は、ふたつ。いちばん家から近い安曇川高校か、隣町の高島高校か。安曇川高校の普通科のほうが、教育プログラムを頑張っていたのでレベルが高かった。ただ、その高校の商業科のほうは……リアルな『スクール☆ウォーズ』でしたけどね(笑)」

 高校に入学すると、アウトドア遊びとゲームに興じていた中学時代から、西沢さんの生活にもちょっとした変化が起こる。

「ゲームを離れて、より一層、アウトドア派になりましたね。本格的な山登りを始めて。といっても登山部に入ったわけじゃなく、学校の仲間5人くらいが集まって、勝手に登りに行ってただけです。最初はキャンプの一環のつもりで始めた山歩きでしたが、回を重ねるとどんどんエスカレートしてしまい、最後は日本アルプス……槍ヶ岳ですよ。穂高でベースキャンプを張ってね(笑)」

 その5人の仲間に西沢さんが入ったのは、ある先輩に憧れたから。

「ひとつ上の先輩に、やたらカッコいい人がいたんですよ。その人に引っ張られて、スケボーとかBMXとかスノボとか、オシャレな遊びに連れてってもらって。この先輩がまた、ストリート系の遊びがやたら上手いんですよね。足は遅いんですけど(笑)。その先輩に憧れて、僕も見よう見まねでいろいろ始めました。特にハマッたのが、まだ日本にブームがやってくる前だったスケボー。当時はまだ、本格的な道具しか売ってなかったので、デッキはデッキ、トラックはトラックでこだわって、総額4万円くらいする装備を、お金を貯めて買い込みました。山登りも、マウンテンバイクを担いで登って、下って楽しむとかね」

 仲間と一緒に、そんなワイルドな日々を過ごしていた西沢さんにも、そのうち進路を考え出す時期が来る。当時の西沢さんは、将来をどう考えていたのだろう?

「具体的に、どんな職業に就きたいとまでは考えていなかったですが、商品として、自分を刻める物を作ってみたいとぼんやり思ってました。スケボーもそうですけど、マウンテンバイクの改造も大好きだったりと、物を作る仕事にはずっと憧れてて。
 そういえば、釣りもそうですよね。釣りもずっと続けてましたから、ジャンルとして最終的には、フライフィッシングに行き着きましてね。フライフィッシングの醍醐味は、やっぱり自分で毛ばりを作ることなんですよね。ラビットの毛をむしって、どうやってニンフ(水生昆虫の幼虫期を模したフライ。水中に沈めて使用する)を作るかと悩んだり。アウトドア遊びの中で、物作りにますます目覚めた感じですか。今のデジタルな仕事とは、全く無縁ですけどね(笑)」

 ……と、漠然と考えていた彼は、そこで高校卒業後の進路をどう選んだか?

「いや、そこまで具体的には考えませんでした(笑)。ちょうど時代がバブルでしたから、世の中の雰囲気も、なりたいものを想定して具体的にどの大学に行くというよりも、入れるところでちょっとでもランクの高いところに行けば、就職先も好きに選べるだろうという感じでしたから。歴史とか文学に全く興味が持てない理系だった僕は、とりあえずそっちの大学に進学しようと……」

 そこで西沢さんが目指したのは、東京理科大学。

「これが、勉強が大変で。高校受験の時も、受験直前だけ頑張って、入学したら成績も下降線をたどっていたんですよ。高校2年で、先生に“お前はもう、大学は諦めろ”って言われてましたからね。関西圏では理系より文系の大学のほうが入りやすいもんですから、クラス分けの時に先生は、文系クラスに進めとアドバイスしてくれたんですよ。でも、それに僕は逆らって理系に。だから、ハナから浪人するつもりでした(笑)。
 受験勉強を始めたのも、高校3年から。近所には予備校もなかったので、切実に考えていなかったんですね。そんな時、初めて京都の駿台予備校に行ってシステム化された受験対策のスゴさを知り、カルチャーショックを受けました。そこからメキメキ成績も上がり、私学の理系に的を絞って、受験しました。本命は立命館で、運良くそこも受かったんですけど、なぜか親父が東京理科大に行けとやたら勧めるんですよ。知り合いに、どっちに進むのがいいのか、さんざん相談してたらしく(笑)」

 ところが、西沢さん自身は、せっかく合格した東京理科大には、あまり通いたくなかったとか。

「東京には行きたかったんですけど、理系の専門大学って、ちょっとした男子校じゃないですか(笑)。あと、理科大は入ってからがハードだと聞いていたので、ここに入ると、いわゆる大学生らしい遊びはできそうもない。ちょっと憂鬱になりながらでしたけど、“じゃあ、俺、勉強するよ!”と開き直って、東京に引っ越しました。
 親父としてみれば、それまで僕が真剣に勉強する姿を見てなかったので、まさか現役で大学に合格できるとは思ってなかったみたいなんです。だから、僕のことも一生懸命考えてくれたんでしょうね」

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