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そのゲームの世界観では、何がリアルなのか?それを伝えるのがデザイナーの仕事。だからこそ難しい。
 伊藤 信太郎
 

個性的な作品をつくり出す注目のゲームクリエイターに“あなたができるまで”を訊くロングインタビュー企画「THE EARLY DAYS」。今月のゲストは、ついにベールを脱いだPLAYSTATION®3の話題作『AFRIKA™』のアートディレクター・伊藤信太郎さん。子供の頃から油絵とSFモチーフのフォトリアルなアートを志していた伊藤さんは、美大の油絵専攻科からふとしたキッカケでゲーム業界へ。そして『AFRIKA™』を開発するために、朋友と開発会社ライノスタジオを設立した。そんな伊藤さんの半生とともに、ゲームユーザーに話題沸騰の『AFRIKA™』開発秘話、そのゲーム内容をたっぷりと語ってもらった。

取材・文/阿部美香(ライター)
 

幼稚園・小学校時代〜絵画教室でAFRIKAに出会う?

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 8月28日に発売を控え、ゲーム業界のみならず各方面から話題沸騰のPLAYSTATION®3タイトル、『AFRIKA™』。そのアートディレクションを手がけた伊藤信太郎さんの出身地は、東京・築地。プロダクトデザイナーの父と、八丁堀で文房具店を営む母の間に生まれた。

「なので、いちばん幼い頃の記憶にあるのは、深川神社のお祭り。確か……御神輿の上に乗っていたような記憶がありますね。まだ幼稚園に入る前、2歳くらいの頃ですかね。うちは、親父もおふくろも東京生まれの東京下町育ち。その上もそうなので、親子3代にわたるいわゆる江戸っ子でした。……“でした”と言ったのは、そこから親父が家を建てまして、3歳くらいで多摩地区のほうに引っ越してしまったんです。引っ越し先の住所は国分寺。といっても国立駅のすぐ北側なので、それから社会人になるまでずっと国立育ちですね。だから、江戸っ子っぽい暮らしの記憶はないんですよ(笑)」

 国立に移り住んだ伊藤さんは、一橋大学のすぐ近くにあった幼稚園に通うようになる。

「そこは、かなり真面目なキリスト教--プロテスタント系の幼稚園。そこで3年間、聖書に触れて、子供ながらに海外の文化、キリスト教の文化が好きになったんです。高校くらいまで日曜学校にも通いました。うちは仏教だし、熱心なキリスト教信者でもなかったんですが、雰囲気がなんとなく好きだし、教会ってなぜか落ち着くんですよね。歌はほとんど忘れてしまいましたけど、「天にまします我らの父よ……」という“主の祈り”は、たぶん今でも言えますね」

 将来の仕事に通じる絵に対する興味も、そこで培われたとか?

「そうですね。キリスト教の本の挿し絵、宗教画を見るのも好きだったし。その影響かどうかはわからないんですが、小学1〜2年から、母親に連れられて近所の絵画教室に通うようになりました」

 それには、父親がデザイナーだという、絵に馴染みの深い環境も影響したのだろうか。教室に通う以前も、伊藤さんは絵を描くのが好きな子供だったという。

「これはまだ築地にいた頃の記憶ですけど、小さい頃は落書きが大好きでした。ただ、落書きのモチーフは、なぜか墓。今でも不思議なんですけど、お墓の絵ばかりを描いていたんです。3歳くらいでしたかね。例えばどんな絵かというと、紙の右寄りに墓石と卒塔婆があって、左側から柳の枝がたれていて、なぜかその下に蛇がいる(笑)。特に蛇は、お気に入りのモチーフでした。キッカケは、やっぱり下町の風景ですね。深川近辺には寺が多いので、日常的な光景だから……だと、思うんですけど。ずいぶん墓をリスペクトしてたんですね(笑)。今でも、当時の墓の落書きは、家に残ってますよ」

 さすがに絵画教室に通う歳になってからは、墓地の絵は卒業したそうだが、3歳児の絵としては、墓はずいぶんユニークなモチーフだ。さて、話を絵画教室に戻そう。幼稚園で海外の文化が好きになった伊藤さんが、第二の海外文化に触れたのも、この絵画教室だった。その文化というのがまさしく……AFRIKA!

「絵の先生は東京芸術大学を卒業された方で、アパルトヘイトにも反対していたという、アフリカが大好きな人だったんです。確かガーナだと思ったんですが、そこでの生活を版画で描いていました。だから、アトリエにも黒人の人が何人も遊びに来ていた。さすがに、教室でサファリな絵を教えられた記憶はないのですが、アフリカの文化、アフリカンなテイストのグラフィックにも自然に馴染んでいましたね」

 そこで水彩画を習っていた伊藤さんは、2年後には油絵をすすめられ、小学校中学年になる頃にはキャンバスに向かうようになった。

「でも、全然アカデミックな教え方ではなかったので、絵を勉強しに行ってたというよりは、好きな絵を油絵の画材で、思いっきり描きに行ってたというほうが合ってますね。先生も、教えるという感じではなく、子供に自由にさせてくれました。そんな環境が気に入って、高校1年生まで通っていましたね」

 絵を習っていたと聞くと、線の細い物静かな人物を想像するが、伊藤さんは、国立の自然の中でザリガニやカブトムシを採ったり、小学4年生からは、奥寺康彦選手に憧れて学校のサッカーチームに所属したりと、体を動かすのも大好きな、活発な少年だった。

「学校の好きな教科も、もちろん図工と体育。習い事は絵画教室だけで、塾にも通っていなかったので、その他の教科は悲惨なものでした。勉強することが嫌いなわけではないんですが、数字が出てくると途端にアレルギーが……。だから、学校に関する思い出と聞かれても、何も出てこないんですよね(苦笑)」

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中学時代〜絵を職業にすることを妄想!?

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 中学に進学した伊藤さん。この頃から伊藤さんの趣味にも少し変化が現われる。絵の趣味は絵画教室に通い続けることで継続。小4から始めたサッカーも熱は冷めず、中学でもサッカー部に入部した。

「サッカーは、都大会まで行きましたね。ベスト8には届きませんでしたけど、けっこういいところまで。そこまで行くと、相手が私立の暁星中学とかになっちゃう。さすがに、そんな名門に勝てるわけがないですよね」

 そしてもうひとつ増えた趣味というのが、音楽だった。

「小学校6年生くらいの時から、なんとなくカルチャー・クラブやデュラン・デュランを聴くようになって、そのノリで、中学に入ると“もうポップスなんかは卒業だ!”と言いながら、ロックを聴き始め、すっかりロック少年になっていきました。ジョン・クーガー・メレンキャンプとか、初期のブルース・スプリングスティーンとか、チャラチャラしないアメリカンロックを聴くように。だから洋楽ばかりで、邦楽は全然聴かなかったです。
 その頃から、中学の友達とバンドの真似事も始めて、ロマンティックスとかキンクスをコピーしましたね。ライブに出たことはなかったですが、練習だけはずいぶん。ギターのヤツはビートルズが大好きだったんですけど、ドラムの僕とベースは“ビートルズなんかヤだよ”と逆らって、もっとシブいロックを演奏してました。ちょっと生意気だったんですよ(笑)」

 伊藤さんが担当した楽器はドラム。楽器の演奏経験は全くなかったという伊藤さんが、ドラムを選んだ理由は?

「ギターの音を、ちゃんと出せるようになる自信がなかった。ちょこちょこ弾いてもみたんですが、全然上手くならなかったです。でもドラムなら、とりあえず叩けば、何かしらの音が出るじゃないですか(笑)。あとは、いかに速く叩けるようになるかを練習すればいい。そういう理由です。
 でも、自宅にはドラムセットを置くスペースもないし、うるさいしで、普段は座布団を叩いて練習してましたね。本物のドラムを叩くのは、練習スタジオに行ったときだけ。家では、ひざ上でパタパタパタパタやってましたよ」

 バンド活動は、高校、大学とその後も続けていたという伊藤さんだが、「残念ながら、女の子にモテた記憶は一切ないですね」と苦笑する。こうして、伊藤さんの中学時代は絵とサッカーとロックに染まっていった。もちろん絵のほうも?

「絵画教室で油絵を描くことは続いていました。ただ、この頃から描きたいものは変わってきましたね。風景画を描いていても面白くなくて、人物を描くように。アトリエの先生の娘さんや、自分の家族、身近な人物をモチーフにしていましたね」

 そんな伊藤さんの、中学2年が終わる頃。彼は、ある先生から呼び出しをくらう。

「生活指導の先生に、“今のオマエの学力ではこのくらいの高校にしか行けないぞ”と言われたんです。そこは、かなり荒れている高校でした。テストでも赤点をよく取っていたので当然なんですけど(笑)、その高校だけには通いたくなかった。その恐怖から逃れるために、ちょっとだけマジになって塾にも通い、勉強を始めたんです。結果、当時、創立5年目くらいの新設校、小平南高校に合格できました。親も一安心したみたいです」

 ところで伊藤さんはこの時期、将来なりたいものを、もう決めていたのだろうか?

「具体的に何も努力してはいないんですが、妄想だけは広がっていましたね。ちょうど、小学1年生の時に最初の『スター・ウォーズ』(『スター・ウォーズ エピソード4/新たなる希望』)が公開されて、3年生で『帝国の逆襲』(『スター・ウォーズ エピソード5/帝国の逆襲』)、6年生で『ジェダイの復讐』(『スター・ウォーズ エピソード6/ジェダイの帰還』)を観ていましたから、『スター・ウォーズ』にすっかりハマったんです。その後も『スタートレック』『エイリアン』などのSF洋画が大好きで……。もちろん、『機動戦士ガンダム』もですけどね(笑)。なので、将来はアメリカに行って、例えば当時でいうルーカスフィルムのような会社で、シド・ミードのようなクリーチャーや、宇宙戦闘機をデザインするような仕事に就きたい。そこまでではなくても、少なくとも絵を生業にしたいなぁと、漠然と思ってました。
 デザイナーでも、自分の親父と同じ工業デザイナーはなりたくなかったですね。当時の工業デザイナーはドラフターを使って製図を描いていたので、ずっと机に座ったままじゃないですか。それを見てきたので、親父には申し訳ないんですが、その当時はあまり興味がもてなかったんです。だから、ジャンルの違うデザイナー……エンタメ系への憧れはありましたね」

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高校時代〜ファインアート目指して美大を受験

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 高校に入学した伊藤さんは、中学時代からさらに「ヤンチャ度が増して」いったのだとか。それが証拠に、絵を描く職業を漠然と目指していたにもかかわらず、それまで続けていた絵画教室を、高校1年で辞めてしまう。

「“別にもう、習い事なんかいいわ”って気になっちゃって、アトリエに通うのは辞めてしまいました。学校でも、とりあえずサッカー部には入ったんですけど、同じ時期に部活も辞めてしまって。その後、高校2年生くらいの時期はいちばんヤンチャ。悪い友達と一緒に、なりふりかまわず遊んでました。
 でも、絵はずっと描いていたんですよ。ケント紙を買い込んで、外でさんざん遊んで自宅に帰ってから、クリーチャーとか宇宙船とかを。シド・ミード・スタイルに憧れてたんで、いかにもそれっぽいハイパーリアル系を真似して」

 音楽の趣味のほうも、ヤンチャ度を増し?

「好みがアメリカンロックからヘヴィメタルにシフトしたので、骸骨の絵ばかり描いてました(笑)。聴いていたのは、メタリカとオジー(オズボーン)とブラック・サバス。めちゃくちゃ速いスラッシュメタル系とおどろおどろしいのばっかり。今度は高校の同級生とバンドを組んでいたんですが、コピーしてたのもオジーでしたね。アマチュアがやることって、ギタリストの趣味でやること変わるじゃないですか。中学時代のギターは、後に音大に入るような優等生だったので、好きな音楽も正統派のブリティッシュ。高校時代のギターは、ランディ・ローズに憧れてるようなヤンチャな男だったので、自然とメタル系になったんです。
 中学のバンドは練習するだけで、人前で演奏することはなかったんですが、高校時代はさすがに、立川の練習スタジオの地下のステージや、学校の文化祭にも出るようになりました。残念ながら、やっぱり女の子にはモテなかった。ヘヴィメタルはダメですね(笑)。当時、世間はBOØWYやBUCK-TICKの時代だったので、女の子は全員、そっち系のコピーバンドに流れてたし、メタル系はメタル系で、ちょっとカッコよさげなLAメタルが全盛期だったんですけど……チャラチャラしてるという理由で、僕らはそっちに行かなかった。まぁ、ふだんの格好も、肩くらいまである長髪だし、ライダースジャケットに破れたジーンズでしたから、モテる要素はそもそもないんですけど。男臭いバンドでしたね(笑)」

 高2でピークを迎えた、伊藤さんのヤンチャな高校時代。しかし楽しい時間はあっという間に過ぎ去り、大学進学の準備にかかる高校3年生になると、彼の生活は一変する。

「周りがみんな進学を希望するので、僕も大学に進もうと。でも、成績はかなりの赤点率(笑)。一般の有名大学はとても無理なので、好きだった絵を描ける美大に行こうと考えました。そこで、立川の美大受験予備校の夜間部に通うようになったんです。毎日、高校の授業が終わってから予備校に行って、受験のための絵を勉強する。バンドはまだやってましたけど、夜遊びやヤンチャは全くしなくなりました」

 すっかり真面目になって、美大受験に取り組んだ伊藤さんだったが、念願の美大合格を迎えたのは、高校卒業から2年後のことだった。

「まさか、2年も浪人して、同じ予備校に通い続けることになるとは思わなかったですね(笑)。目指していたのは、やはり油絵科でした。美大志望者の選択肢としては、“東京芸大”(東京藝術大学)、“武蔵美”(武蔵野美術大学)、“多摩美”(多摩美術大学)、“造形”(東京造形大学)というのが一般的なんですけど、芸大は一部の天才か本当に頑張った人しか入れないので、受けるだけは受けましたけど、もちろん無理(笑)。武蔵美は、実技試験に茶・白・青・黄の絵の具だけが配られて、その4色だけで静物画を描けという課題があったのですが、“ちょっと自分のスタイルとは違う”と思って受験しませんでした。造形は、デザイン寄りの学校というイメージが強いので、そこも受けなかったですね。結局、芸大と多摩美の2校だけを受験し続けました。
 専門学校に進路変更するという選択肢も、考えつかなかったですね。そもそも、油絵を勉強することしか考えてなかったので、デザイン系の専門学校の存在すら知らなかった。ファインアートのことしか眼中になかったので、ひたすら美大を目指してて。予備校のお金もアルバイトで稼ぎながら、厳しい浪人生活を送ってました」

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