8月28日に発売を控え、ゲーム業界のみならず各方面から話題沸騰のPLAYSTATION®3タイトル、『AFRIKA™』。そのアートディレクションを手がけた伊藤信太郎さんの出身地は、東京・築地。プロダクトデザイナーの父と、八丁堀で文房具店を営む母の間に生まれた。
「なので、いちばん幼い頃の記憶にあるのは、深川神社のお祭り。確か……御神輿の上に乗っていたような記憶がありますね。まだ幼稚園に入る前、2歳くらいの頃ですかね。うちは、親父もおふくろも東京生まれの東京下町育ち。その上もそうなので、親子3代にわたるいわゆる江戸っ子でした。……“でした”と言ったのは、そこから親父が家を建てまして、3歳くらいで多摩地区のほうに引っ越してしまったんです。引っ越し先の住所は国分寺。といっても国立駅のすぐ北側なので、それから社会人になるまでずっと国立育ちですね。だから、江戸っ子っぽい暮らしの記憶はないんですよ(笑)」
国立に移り住んだ伊藤さんは、一橋大学のすぐ近くにあった幼稚園に通うようになる。
「そこは、かなり真面目なキリスト教--プロテスタント系の幼稚園。そこで3年間、聖書に触れて、子供ながらに海外の文化、キリスト教の文化が好きになったんです。高校くらいまで日曜学校にも通いました。うちは仏教だし、熱心なキリスト教信者でもなかったんですが、雰囲気がなんとなく好きだし、教会ってなぜか落ち着くんですよね。歌はほとんど忘れてしまいましたけど、「天にまします我らの父よ……」という“主の祈り”は、たぶん今でも言えますね」
将来の仕事に通じる絵に対する興味も、そこで培われたとか?
「そうですね。キリスト教の本の挿し絵、宗教画を見るのも好きだったし。その影響かどうかはわからないんですが、小学1〜2年から、母親に連れられて近所の絵画教室に通うようになりました」
それには、父親がデザイナーだという、絵に馴染みの深い環境も影響したのだろうか。教室に通う以前も、伊藤さんは絵を描くのが好きな子供だったという。
「これはまだ築地にいた頃の記憶ですけど、小さい頃は落書きが大好きでした。ただ、落書きのモチーフは、なぜか墓。今でも不思議なんですけど、お墓の絵ばかりを描いていたんです。3歳くらいでしたかね。例えばどんな絵かというと、紙の右寄りに墓石と卒塔婆があって、左側から柳の枝がたれていて、なぜかその下に蛇がいる(笑)。特に蛇は、お気に入りのモチーフでした。キッカケは、やっぱり下町の風景ですね。深川近辺には寺が多いので、日常的な光景だから……だと、思うんですけど。ずいぶん墓をリスペクトしてたんですね(笑)。今でも、当時の墓の落書きは、家に残ってますよ」
さすがに絵画教室に通う歳になってからは、墓地の絵は卒業したそうだが、3歳児の絵としては、墓はずいぶんユニークなモチーフだ。さて、話を絵画教室に戻そう。幼稚園で海外の文化が好きになった伊藤さんが、第二の海外文化に触れたのも、この絵画教室だった。その文化というのがまさしく……AFRIKA!
「絵の先生は東京芸術大学を卒業された方で、アパルトヘイトにも反対していたという、アフリカが大好きな人だったんです。確かガーナだと思ったんですが、そこでの生活を版画で描いていました。だから、アトリエにも黒人の人が何人も遊びに来ていた。さすがに、教室でサファリな絵を教えられた記憶はないのですが、アフリカの文化、アフリカンなテイストのグラフィックにも自然に馴染んでいましたね」
そこで水彩画を習っていた伊藤さんは、2年後には油絵をすすめられ、小学校中学年になる頃にはキャンバスに向かうようになった。
「でも、全然アカデミックな教え方ではなかったので、絵を勉強しに行ってたというよりは、好きな絵を油絵の画材で、思いっきり描きに行ってたというほうが合ってますね。先生も、教えるという感じではなく、子供に自由にさせてくれました。そんな環境が気に入って、高校1年生まで通っていましたね」
絵を習っていたと聞くと、線の細い物静かな人物を想像するが、伊藤さんは、国立の自然の中でザリガニやカブトムシを採ったり、小学4年生からは、奥寺康彦選手に憧れて学校のサッカーチームに所属したりと、体を動かすのも大好きな、活発な少年だった。
「学校の好きな教科も、もちろん図工と体育。習い事は絵画教室だけで、塾にも通っていなかったので、その他の教科は悲惨なものでした。勉強することが嫌いなわけではないんですが、数字が出てくると途端にアレルギーが……。だから、学校に関する思い出と聞かれても、何も出てこないんですよね(苦笑)」
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