未知数なものと着実なゲーム性を両立させた作品でプレイする人をニンマリさせたい。 山口 洋一
 

個性的な作品をつくり出す注目のゲームクリエイターに“あなたができるまで”を訊くロングインタビュー企画「THE EARLY DAYS」。今月はSCEより9月25日発売予定、PLAYSTATION®3の海洋アドベンチャー『AQUANAUT'S HOLIDAY 〜隠された記録〜』のディレクターを務めるアートディンク・山口洋一さんをゲストにお迎えした。ビジュアルデザインからプログラムまで、幅広いスキルを持つ山口さんは、アートディンクで『THE ATLAS』シリーズを手がけ、その後独立。数々のヒット作を世に送り出し、再びアートディンクで、PlayStation®時代の名作『アクアノートの休日』シリーズ最新作となる『AQUANAUT'S HOLIDAY 〜隠された記録〜』の開発を手がけた。彼が提示する他にはない独創的なアイデアは、どんな半生を経て形作られたのか? 子供時代の思い出からゲーム業界に入る道のりと共に、代表作の開発秘話、最新作の見どころを、じっくりと語ってもらった。

取材・文/阿部美香(ライター)
 

幼稚園・小学校時代〜ゲーム制作の原点は“迷路”

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 古代には、大和王権下で大小の古墳が作られた重要地として栄え、戦国時代から安土桃山時代にかけては中国・東南アジアとの貿易地として“東洋のベニス”とも称された商人の街、大阪府堺市。現代では、大阪を代表するベッドタウン、大阪府第二の都市として工業分野でも脚光を浴びるその街で、山口洋一さんは生まれ育った。歴史ある土地柄だけあって、山口家の先祖は、この土地の庄屋をつとめていた名家なのだそうだ。

「といっても、ウチは分家なのでたいしたことはないんですが、実家のすぐ目の前の本家の建物は、江戸時代にできた古い家。昔は、使用人がいたりして、かなり栄えた家だったらしいですよ。建物がそのまま残っているので、今は、重要文化財として保存されています。時代劇に出てくるような、障子が何枚も連なる広間があったりしましたから、映画の撮影に使われたこともあるんですよ。
 だから、幼稚園の頃くらいに、いちばん印象に残っているのが、本家の屋根の上から見た景色なんですよ。ちょうど屋根瓦の大改修工事をやっていたとき、梯子が掛けられていたんです。そこをトコトコ登っていって、“わー、遠くまでよく見えるなぁ”と感心した記憶があります。今は高い建物が増えたので、もう見えませんが、当時はそこから、遠くに仁徳天皇陵が見えた。子供だったので、それが何かは全然わからなくて、“あぁ、あんなところに山があるんだ”って思ってました。まさか、それが教科書に載っているような偉い人の墓だとは、学校で勉強するまで気づきもしませんでしたね(笑)」

 山口さんの家があった一角も、昔ながらの風景と慣習が残る街だった。

「今は、なくなってしまったかもしれませんが、僕が小さい頃は、夏場、毎月7のつく日に夜店が出ていたんですよね。僕自身は、それが7のつく日だからということは理解してなかったんですが、時々、夜に外をのぞくと、たばこ屋の角の向こうに浴衣姿の人が歩いてるのが見えたりして、賑やかなのが分かるんです。それを見つけると、お母ちゃんに小遣いをもらって、いそいそと出掛けていきました。僕にとっては、たまにやってる謎の祭りだったんですが(笑)、よほど楽しみにしていたんでしょうね。よく夢にもその光景が出てきましたよ」

 山口さんの一家は、公務員の父、母、某大手メーカーでファッションデザイナーをしていた5歳年上の姉と山口さんの4人家族。山口さんから見た父親は、とても穏和で自由な考え方の持ち主だった。

「父には叱られた記憶がないんです。自分も自由にするから、子供もそうすればいいという考えでしたね。気がつけば読書か庭いじりをしている、世間ずれしていない、どこか浮世離れした人でした」

 そんな落ち着いた家庭に育った山口さんは、どんな子供だったかというと?

「小学校に入ると、本家とウチの間にある広めの庭で、友達と仮面ライダーごっこをしたり、おとなしめではありましたけど、まぁ普通の子供ですよね。当時は、堺にもまだ畑が点在してましたから、そこで遊んだり、自転車に乗って境港まで走ってみたりと、近所の探検も大好きでした。特に海は好きで。初めて港に着いて、広い海を見たときは、本当に感動しましたよ。その海への感動が、『AQUANAUT'S HOLIDAY』に繋がって……という話でもあれば、このインタビューももっと盛り上がるんでしょうけど、そこまでは残念ながら(笑)。
 あとは、本を読んだり、絵を描いたりするのが好きでしたね。本のお気に入りはシャーロック・ホームズの探偵小説。本を読みながら夢想するのが好きな子だったんでしょうね。そして、絵のお気に入りは……“迷路”を描くことでした」

 迷路を描く? 迷路を解く……ではなく?

「ええ、描くほうなんですよ(笑)。もちろん、普通の絵を描くのも好きでしたが、迷路はかなり熱心に作ってて。キッカケは全然思い出せないんですけど、毎日、“迷路ノート”を持ち歩いて、ノートの見開きに、ヒマさえあれば自作の迷路を描いて、友達に解かせてました。表紙がシャーロック・ホームズの絵で、“この迷路が解けるかな?”なんてセリフを書いていたのを覚えてます。なんてアホな子供だったんだろう(笑)。
 迷路作りは小学4年生くらいまで続いたんですが、描いてるうちに模様にも凝るようになっていきました。小学校3年生くらいになると、UFOやツタンカーメンや……何かの絵に見える大作迷路を作って、友達が“難しくて解けないよ!”と根を上げると嬉しがってました。今となって振り返ると、これが僕のゲーム制作の原点かも知れないですね」

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中学時代〜超大作に感動し、映画少年となる

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 小学生時代は、自宅に帰ると絵を描いたり読書をしたりと、ゆったりした時間を過ごしていた山口さんだったが、中学に入ると生活は一変。家でのんびりするヒマはなくなった。その理由は?

「小学校時代に、水泳を習っていたのもあって、中学で水泳部に入ったんですよ。それほど速いわけではなかったので、市の大会でも予選20組くらいをウロウロするような成績でしたが、練習は一生懸命やってましたよ。夜7時くらいまで練習があって、毎日1万メートル近くは泳ぐんです。だから、家に帰る頃にはくたくたで、読書したり絵を描く気力もなく、ご飯を食べたらもう眠くなる。テレビも深夜ラジオも夜12時が限界です。だから勉強もねぇ。成績は中の中か、中の下ぐらいかなぁ。そもそも、勉強というものをした記憶もない。宿題だってあやしいもんですね(笑)」

 その代わり? というわけでもないだろうが、山口さんには充実した休日を過ごす、新たな趣味が増えた。それが、映画だった。

「映画が大好きになったのは、『スター・ウォーズ エピソード4/新たなる希望』(78年公開)がキッカケですね。僕にとってはセンセーショナルでした。そこからSF映画が好きになり、SFだけじゃなくて他のジャンルもどんどん観るようになりました。当時、特に衝撃を受けたのはリバイバルで観た『アラビアのロレンス』。中学3年でしたが、“おおー、すごい!”と興奮しましたよ。話は、中学生には難しすぎたんですが、迫力ある画にやられたんでしょうね。その後も何度も観ていますが、観るたびに感動するし、新しい発見のある名作です。
 もう1本、中学時代に衝撃的だった映画といえば、『2001年宇宙の旅』。これもリバイバル上映で、大阪で唯一、シネラマ方式(※)が残っていたOS劇場で観たんですが、この迫力が凄かった。人生が変わるほどの衝撃を受けました」 (※シネラマ方式……3台のカメラで同時分割撮影された映像を、上映時に3台の映写機で同期する方式。湾曲したスクリーンで超パノラマ映像が楽しめた。音声も、前面5チャンネル、背後2チャンネルの合計7チャンネル再生を実現した)

 ここから、山口さんはどんどん映画の世界にはまり込んでいった。ちなみに、好きな映画監督は?

「そうですねぇ、黒澤(明)を筆頭に、好きな監督はたくさんいますけど……あえて挙げるなら、モンティ・パイソンのメンバーで『未来世紀ブラジル』を撮ったテリー・ギリアム、ヴィム・ヴェンダース、ドイツ繋がりで(笑)『アギーレ/神の怒り』『フィツカラルド』のヴェルナー・ヘルツォーク。ハリウッド系だと、アメリカン・ニューシネマの時代……『明日に向って撃て!』のジョージ・ロイ・ヒルとか。彼の『ガープの世界』は、原作もいいし、本当に大好きですね」

 話を戻そう。休日になると映画館に足を運んでいた山口さんには、趣味を同じくする友達もできた。SFが好きだった山口さんはここから、本格派の映画少年になっていく。

「同じクラスに2人ほど映画友達もできて、土日にはよく映画館に行くようになりました。ウチの駅からは、ミナミの繁華街に出るのも電車で10分くらい。中学3年生にもなると、受験勉強もせずに、毎週行ってたような気がしますね。  そうなると映画の知識もどんどん増えて、SFだけじゃなく、本格派のやや難解な作品も観るようになり。ちょっとませた映画少年だったかも知れませんね(苦笑)。『ぴあ』みたいな、『Lマガジン』という関西の情報誌がありまして、それで映画の情報を調べたりして。
 だから、受験で東京に来たとき、本物の『ぴあ』を見て大感激したんですよ。東京には、こんなにたくさん映画館があるんだと嬉しくなって、受験そっちのけで映画を観に行ってました(笑)」

 そんな、水泳部と映画に青春を賭けていた中学時代も終盤。高校受験を控えた山口さんが選んだ進路は?

「当時は、公立と私立を両方受けて、どちらかに行くのが一般的だったんですが、とにかく受験勉強をする気がなかったので、僕は私立の専願を選びました。先生が、“ここ、いいんじゃないか?”という薦めに従って、家からすぐ近くの浪速高校に決めました。もちろん試験は受けたんですけど、何の苦労もなく。いかんですよね、人生もっと真面目に考えて生きないと!(笑)」

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高校時代〜東京での暮らしと美大に憧れる

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 山口さんが進学した浪速高校は、過去、有名作家、芸能人や有名スポーツ選手を多数輩出してきた有名校。すんなりと決めた高校に、すんなりと入学した山口さんを待っていたのは、当人いわく「なんのドラマもない高校生活」だった。

「今は少子化の波をうけて共学になってるみたいですが、僕らの時は男子校で。男子校って、ほんとに野獣の集まりみたいな、むさくるしい所でね(笑)。あまりよく考えずに高校を選んでしまったのを、かなり後悔したものです。もちろん、彼女ができるキッカケもなく。あと、映画研究会とか運動部とか、何か部活をやりたいと思いながらも、タイミングを逃して3年間帰宅部になってしまったことも、学校生活をつまらなくした原因ですかね」

 そんな山口さんの心を掴んだのは、中学時代から続く映画の趣味と、音楽だった。

「中学の映画友達とは、高校が分かれてしまったので、高校でまた新しい映画友達を見つけて、映画のほうは相変わらず。そして、音楽……ロックが好きになっていきました。当時好きだったのは、姉の影響でデヴィッド・ボウイ。グラムロック時代のボウイは大好きでした。そして、僕が今でも人生の師匠と呼んでいるアーティストが、ルー・リードですね。  ロックを聴き出す最初のキッカケは、クィーン。そこから洋楽に入っていって、ポリスやThe B-52'sなどのニュー・ウェイブ、テクノ・ポップに進んで、邦楽だとYMO系を聴くようになりました。だから、映画を観に行くだけじゃなく、大阪のミナミにレコードを漁りに行ったり。キングコングという中古レコード屋には、毎週のように通ったものです」

 コンピュータに興味を持ったのもその頃だ。山口さんのPC体験の出発点は、中学時代、水泳部の先輩が持っていたマイコン。そこでプログラミングの面白さを知った山口さんは、高校2年のコース選択で、理系コースを選んだ。

「もともとは文系の人間なんですが、ついうっかり。勉強を始めてから、“俺、向いてないじゃん”というのがわかったんですけどね(笑)。理科が好きだなぁと思ってたわりには、物理がやけに難しく感じたりして。なので、理系コースでありながら、高3になってからは、それまで好きだった絵を勉強しようと、美大志望になるんです。かなり優柔不断な人生ですよね(笑)。
 そこで、高3の夏からデッサンの勉強を始めたんですけど……これがまたね。自分では絵は得意だと思っていましたが、アトリエに通ってみたら、にわか勉強を始めた僕に比べて、まわりは上手い人ばかり。こりゃ、美大なんて無理なんじゃないかと、ようやくそこで気づいたんです」

 しかも、山口さんが目指したのは、東京の美術大学だった。大阪や京都にも有名な美大はあるが、なぜ東京に?

「映画、音楽に触れるたびに、あらゆるメディアが集まる東京への憧れがふくらんで。大阪にも、他の県に比べればたくさんメディアはあるんですけど、やっぱり東京は特別な街。将来、そういう仕事に就けたらいいなという憧れもあって、大学は東京の学校と決めていました」

 だが、高3で受験した美大は不合格、山口さんは大阪の美大予備校で浪人生活を送ることになる。今は、ゲームクリエイターとして活躍する山口さんだが、当時は美大を出て、どんな職業に就こうと思っていたのだろう?

「グラフィックデザイナーか、映像関係の仕事ができればいいと思っていましたね。浪人生活後半からは、CGに関わる仕事にも興味がありました。ここでやっとコンピュータに近づくんですけど、キッカケは映画『トロン』。当時としてはすごい映像でした。CGというのは凄いなぁと驚かされましたよ」

 そして翌年、山口さんはもう一度、東京の有名美大を数校受験。

「和光大学の芸術科に合格しました。和光の芸術科を受けようと思ったのは絵だけじゃなく、映像なども網羅した総合的な学科だったから。調べてみたら、けっこう個性的な勉強をさせてくれるんですよね。「おもしろそうだな」と楽な気持ちで受験したのがよかったのかも知れません」

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