PSの名作を、新たなフィーチャー、新たなハードでリニューアル。2009年4月29日にPSP®で発売予定の話題作『ペルソナ』は、ゲーム業界を代表する人気サウンドクリエイターである目黒将司さんが、それまで長く関わってきた『ペルソナ』シリーズへの愛とノウハウをつぎ込み、初めてディレクションを手がけたタイトルだ。その目黒さんは、東京都北区赤羽生まれ。3歳で大田区の大森に移り住んだ、生粋の東京っ子だ。
「大森に移ったのは、父が会社から独立して、町工場を始めたからなんです。名前は“目黒機工”と大層なんですが、従業員は現在2名。つまり、うちの父と母ですね(笑)。切削工具というものを扱ってまして……旋盤ってあるじゃないですか? その旋盤で鉄を削るための刃を作ってます。バイトと呼ばれるものですね」
家族経営の町工場だけに、目黒さんは幼い頃から、両親の働く姿をいつも間近で観察していたという。
「1階が仕事場で2階が住居の、本当に小さな工場なんですよ。だから3歳くらいからの自分の家の記憶は、親の働いているところを見ていたこと……ですかね。子供ながら、夏休みなんかには、仕事を手伝ったりもしましたよ。切削工具を作るために、まずは長い鉄の棒を小さく切っていくんですけど、それを。作業は、棒を持ち上げてボタンを押すだけと簡単なので、さほど危険はなかったはず……ですよね?(笑)」
機械を扱うのは、子供心にも楽しかったという目黒さん。だが?
「親父の仕事は、僕には継げないと思っていました。この作業を、一生続けるのはイヤだなぁと。申し訳なかったですが、若い頃から親父にはそう言っていました。しかも、僕はひとりっ子なので跡継ぎもほかにいない。親は工場を大きくすることもせずにきましたね」
幼稚園から小学生時代、機械いじりよりも目黒さんが熱中していたのはエレクトーンだ。習い始めたのは、4歳か5歳の頃。きっかけは?
「……あんまりよく覚えてないんですよね。しかも習っていたのは、自宅の近所ではなく、祖母の家のあった赤羽で。僕は母親に連れられて毎週末になると、母の実家に泊まりがけで遊びに行ってたんですが、ある日から、赤羽の楽器店の2階にあるヤマハのエレクトーン教室に通うようになったんです。おそらく、母親が連れて行ったんでしょうけど、詳細はまったく……(笑)。でも、教室に通ったのは小学校1年くらいまでで、その後は、自宅で個人レッスンを受けるようになりました」
きっかけは母の薦めではあるが、男の子がいきなりエレクトーンを習い出すというのは珍しい。
「いや、ホントに。ピアノにしていればと僕は思っていたんですが、続けてみるとエレクトーンが面白くなっちゃったんでしょうね、特に個人レッスンになってからは。その先生もユニークな方で、30分のレッスンで教本をさらうのは、最初の5分か10分程度。残りの時間は『将ちゃん、好きな曲をやりなさい』と、『宇宙戦艦ヤマト』なんかを自由に弾かせてくれるいい先生でした。だから続けられたというのもありますね。
小学校2〜3年くらいまでは、僕がこの曲を弾きたいというと、先生がアレンジした楽譜を作ってくれまして。3〜4年くらいからは、自分でアレンジしろと言われ、母が聴いていた映画音楽や『太陽にほえろ!』の主題歌などを、オリジナルアレンジで弾いていました。小学校時代は、そんなにエレクトーンばかりに熱心だった記憶もないんですけど、それがいたく面白くて。結果的には、今の仕事に近いことを、その当時からやっていたことになりますね」
ありがちなことではあるが、エレクトーンを習っていたことで、同級生の男の子たちに、目黒さんはよくからかわれもしたという。
「男の子同士で外で遊ぶこともしてましたが、やっぱり少しはからかわれましたね。“女みたい”とか、そういうたぐいのことですけど(苦笑)。だいたいは、そこで楽器を辞めてしまう人が多いんですが、僕の場合は、小学4年か5年の音楽の時間がきっかけで、からかわれることもなくなりました。『太陽にほえろ!』を、オルガンでみんなの前で弾いたんですよ。そうしたら、次の日からヒーローに(笑)。だから、そこで辞めることなく続けられたんじゃないかと」
幼くして、ポピュラー音楽のアレンジを手がけていたという目黒さん。その話を聞くと、ジャンルを問わず音楽全般が好きだったようにも思えるが、意外にも同級生がふつうに聴く歌謡曲やポップスには、興味がなかったのだとか。
「聴く方は、クラシックが多かったような気がします。別にクラシックファンではなかったと思うんですが、当時、母親がカラヤン(※)の全集を間違って買っちゃったみたいで。それで、ベートーヴェンとかチャイコフスキーの『くるみ割り人形』とか、有名でわかりやすい曲をよく聴きました。
音楽は好きでしたが、不思議なことに歌謡曲は一切。おそらく、クラシックを聴いていた僕にとって、歌謡曲はちょっと邪道な気がしてたんでしょうね。テレビも、ドラマやら『8時だョ!全員集合』やらアラレちゃん(『Dr.スランプ アラレちゃん』)やら、流行りの番組はちゃんと観ていたんですけど、歌番組は記憶にない。日本の流行の音楽を聴くようになったのは、高校に入ってから。だから、松田聖子の曲もたのきんトリオの曲も全然知らなくて、友達とはまったく話が合わなかったですね(苦笑)」
(※ヘルベルト・フォン・カラヤン:89年没。20世紀を代表するオーストリアの指揮者)
では、音楽以外の小学生時代の思い出といえば?
「ものすごくふつうですよ。鬼ごっこをやったり、駄菓子屋で『ギャラクシアン』や『ディグダグ』(以上ナムコ)を遊びながら買い食いしたり、塾に行ったり……。
ゲームは、駄菓子屋に毎日通ってたくらいですから、好きなほうでしたね。確か、小学校1年生の時に『スペースインベーダー』を初めて遊んだと思います。赤羽の駄菓子屋で。僕はひとりっ子だし、人見知りなんで、みんなの前でゲームをやるというのが怖かったんですよ。でも、そこで勇気を出して駄菓子屋で『インベーダー』をやってみたら、もう緊張しちゃって……確か、14点くらいしか取れなかったんですよ。そしたら、その駄菓子屋の娘さんが、あまりのすごい点数なので、まわりの子供たちを呼び集めてしまって、いたたまれなかった記憶がありますね。今でも『インベーダー』が、僕のトラウマです(笑)」
いわゆるテレビゲームについては、いたってノーマルなゲーム少年だったという目黒さん。そんな彼が、デジタルな世界にのめり込むきっかけとなったのは、小学校6年生の時に入手したパソコン。
「そうなんですよ。(「THE EARLY DAYS」の)バックナンバーを読ませていただくと、同世代のクリエイターのみなさんは、ほとんどが同じくらいの時期にPCを手に入れてるんですよね。小学生でPCをいじってたなんて、僕だけかと思ってたらそうじゃなかった(笑)。
僕が持っていたのは、FM-7(富士通)。なぜPCだったかというと、当時、うちはファミコンを買ってもらえなかったので、本当はゲームをやりたかったんですが、英語の勉強になるといって親をだまして。たまたま、親戚から安く譲り受けたんですよね。ただ、モニターを買うお金まではなかったので、RFインターフェイスをかまして本体をテレビに繋いでいました。しかもデータレコーダーもない。なので、ゲームはできなかったんです」
つまり、そのFM-7での作業は、電源を落とすとそこで終わり。目黒さんは、データを記録できなかったPCで……?
「プログラムマニュアルを見ながら、プログラミングの真似事を。毎日、円とかを描いても、セーブができないから、ある程度まで描き終わったらその日は終了。円を描いたり線を引いたりというプログラムをコツコツやっては消し、描いては消しと繰り返していました(笑)」
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