行動すべき時に行動すれば、道は拓ける。物作りに、経験のあるなしは意外なほど影響します。 目黒 将司
 

個性的な作品をつくり出す注目のゲームクリエイターに、“あなたができるまで”を訊くロングインタビュー企画「THE EARLY DAYS」。今月のゲストは、アトラスの目黒将司さんだ。彼が初ディレクションを手がけた4月29日発売予定のPSP®『ペルソナ』は、目黒さんが13年前、初めてサウンドクリエイターデビューを果たした記念碑的PSタイトルの移植作。音楽ファンからも高い評価を受ける作曲家であり、『ペルソナ』をよく知るディレクターである目黒さん。人気の“目黒サウンド”の秘密、『ペルソナ』のこだわりと共に、彼の半生を紐解いてもらおう。

取材・文/阿部美香(ライター)
 

幼稚園・小学校時代〜エレクトーンと初めてのパソコン

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 PSの名作を、新たなフィーチャー、新たなハードでリニューアル。2009年4月29日にPSP®で発売予定の話題作『ペルソナ』は、ゲーム業界を代表する人気サウンドクリエイターである目黒将司さんが、それまで長く関わってきた『ペルソナ』シリーズへの愛とノウハウをつぎ込み、初めてディレクションを手がけたタイトルだ。その目黒さんは、東京都北区赤羽生まれ。3歳で大田区の大森に移り住んだ、生粋の東京っ子だ。

「大森に移ったのは、父が会社から独立して、町工場を始めたからなんです。名前は“目黒機工”と大層なんですが、従業員は現在2名。つまり、うちの父と母ですね(笑)。切削工具というものを扱ってまして……旋盤ってあるじゃないですか? その旋盤で鉄を削るための刃を作ってます。バイトと呼ばれるものですね」

 家族経営の町工場だけに、目黒さんは幼い頃から、両親の働く姿をいつも間近で観察していたという。

「1階が仕事場で2階が住居の、本当に小さな工場なんですよ。だから3歳くらいからの自分の家の記憶は、親の働いているところを見ていたこと……ですかね。子供ながら、夏休みなんかには、仕事を手伝ったりもしましたよ。切削工具を作るために、まずは長い鉄の棒を小さく切っていくんですけど、それを。作業は、棒を持ち上げてボタンを押すだけと簡単なので、さほど危険はなかったはず……ですよね?(笑)」

 機械を扱うのは、子供心にも楽しかったという目黒さん。だが?

「親父の仕事は、僕には継げないと思っていました。この作業を、一生続けるのはイヤだなぁと。申し訳なかったですが、若い頃から親父にはそう言っていました。しかも、僕はひとりっ子なので跡継ぎもほかにいない。親は工場を大きくすることもせずにきましたね」

 幼稚園から小学生時代、機械いじりよりも目黒さんが熱中していたのはエレクトーンだ。習い始めたのは、4歳か5歳の頃。きっかけは?

「……あんまりよく覚えてないんですよね。しかも習っていたのは、自宅の近所ではなく、祖母の家のあった赤羽で。僕は母親に連れられて毎週末になると、母の実家に泊まりがけで遊びに行ってたんですが、ある日から、赤羽の楽器店の2階にあるヤマハのエレクトーン教室に通うようになったんです。おそらく、母親が連れて行ったんでしょうけど、詳細はまったく……(笑)。でも、教室に通ったのは小学校1年くらいまでで、その後は、自宅で個人レッスンを受けるようになりました」

 きっかけは母の薦めではあるが、男の子がいきなりエレクトーンを習い出すというのは珍しい。

「いや、ホントに。ピアノにしていればと僕は思っていたんですが、続けてみるとエレクトーンが面白くなっちゃったんでしょうね、特に個人レッスンになってからは。その先生もユニークな方で、30分のレッスンで教本をさらうのは、最初の5分か10分程度。残りの時間は『将ちゃん、好きな曲をやりなさい』と、『宇宙戦艦ヤマト』なんかを自由に弾かせてくれるいい先生でした。だから続けられたというのもありますね。
小学校2〜3年くらいまでは、僕がこの曲を弾きたいというと、先生がアレンジした楽譜を作ってくれまして。3〜4年くらいからは、自分でアレンジしろと言われ、母が聴いていた映画音楽や『太陽にほえろ!』の主題歌などを、オリジナルアレンジで弾いていました。小学校時代は、そんなにエレクトーンばかりに熱心だった記憶もないんですけど、それがいたく面白くて。結果的には、今の仕事に近いことを、その当時からやっていたことになりますね」

 ありがちなことではあるが、エレクトーンを習っていたことで、同級生の男の子たちに、目黒さんはよくからかわれもしたという。

「男の子同士で外で遊ぶこともしてましたが、やっぱり少しはからかわれましたね。“女みたい”とか、そういうたぐいのことですけど(苦笑)。だいたいは、そこで楽器を辞めてしまう人が多いんですが、僕の場合は、小学4年か5年の音楽の時間がきっかけで、からかわれることもなくなりました。『太陽にほえろ!』を、オルガンでみんなの前で弾いたんですよ。そうしたら、次の日からヒーローに(笑)。だから、そこで辞めることなく続けられたんじゃないかと」

 幼くして、ポピュラー音楽のアレンジを手がけていたという目黒さん。その話を聞くと、ジャンルを問わず音楽全般が好きだったようにも思えるが、意外にも同級生がふつうに聴く歌謡曲やポップスには、興味がなかったのだとか。

「聴く方は、クラシックが多かったような気がします。別にクラシックファンではなかったと思うんですが、当時、母親がカラヤン(※)の全集を間違って買っちゃったみたいで。それで、ベートーヴェンとかチャイコフスキーの『くるみ割り人形』とか、有名でわかりやすい曲をよく聴きました。
 音楽は好きでしたが、不思議なことに歌謡曲は一切。おそらく、クラシックを聴いていた僕にとって、歌謡曲はちょっと邪道な気がしてたんでしょうね。テレビも、ドラマやら『8時だョ!全員集合』やらアラレちゃん(『Dr.スランプ アラレちゃん』)やら、流行りの番組はちゃんと観ていたんですけど、歌番組は記憶にない。日本の流行の音楽を聴くようになったのは、高校に入ってから。だから、松田聖子の曲もたのきんトリオの曲も全然知らなくて、友達とはまったく話が合わなかったですね(苦笑)」 (※ヘルベルト・フォン・カラヤン:89年没。20世紀を代表するオーストリアの指揮者)

 では、音楽以外の小学生時代の思い出といえば?

「ものすごくふつうですよ。鬼ごっこをやったり、駄菓子屋で『ギャラクシアン』や『ディグダグ』(以上ナムコ)を遊びながら買い食いしたり、塾に行ったり……。
ゲームは、駄菓子屋に毎日通ってたくらいですから、好きなほうでしたね。確か、小学校1年生の時に『スペースインベーダー』を初めて遊んだと思います。赤羽の駄菓子屋で。僕はひとりっ子だし、人見知りなんで、みんなの前でゲームをやるというのが怖かったんですよ。でも、そこで勇気を出して駄菓子屋で『インベーダー』をやってみたら、もう緊張しちゃって……確か、14点くらいしか取れなかったんですよ。そしたら、その駄菓子屋の娘さんが、あまりのすごい点数なので、まわりの子供たちを呼び集めてしまって、いたたまれなかった記憶がありますね。今でも『インベーダー』が、僕のトラウマです(笑)」

 いわゆるテレビゲームについては、いたってノーマルなゲーム少年だったという目黒さん。そんな彼が、デジタルな世界にのめり込むきっかけとなったのは、小学校6年生の時に入手したパソコン。

「そうなんですよ。(「THE EARLY DAYS」の)バックナンバーを読ませていただくと、同世代のクリエイターのみなさんは、ほとんどが同じくらいの時期にPCを手に入れてるんですよね。小学生でPCをいじってたなんて、僕だけかと思ってたらそうじゃなかった(笑)。
 僕が持っていたのは、FM-7(富士通)。なぜPCだったかというと、当時、うちはファミコンを買ってもらえなかったので、本当はゲームをやりたかったんですが、英語の勉強になるといって親をだまして。たまたま、親戚から安く譲り受けたんですよね。ただ、モニターを買うお金まではなかったので、RFインターフェイスをかまして本体をテレビに繋いでいました。しかもデータレコーダーもない。なので、ゲームはできなかったんです」

 つまり、そのFM-7での作業は、電源を落とすとそこで終わり。目黒さんは、データを記録できなかったPCで……?

「プログラムマニュアルを見ながら、プログラミングの真似事を。毎日、円とかを描いても、セーブができないから、ある程度まで描き終わったらその日は終了。円を描いたり線を引いたりというプログラムをコツコツやっては消し、描いては消しと繰り返していました(笑)」

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中学時代〜PCゲームとトロンボーンと

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 そんな目黒さんがPCゲームを思う存分遊べるようになったのは、中学1年生の後半から。やっと、念願のデータレコーダーを手に入れることができたのだ。

「そこで、さっそく遊んだのがRPG。『ザ・ブラックオニキス』(BPS)とか『ハイドライド』(T&Eソフト)とか、ちょっと変わったところでは『サイキックシティ』(ホットビィ)とか。アドベンチャーは『ポートピア連続殺人事件』(エニックス)とか。ちょこちょこ、駄菓子屋でアーケードゲームはやってましたが、もはやファミコンは子供っぽく見えましたね」

 この頃から、目黒さんは自分でゲームのプログラミングも手がけるようになった。

「ちょうど、雑誌のコンテストでチュンソフトの中村光一さんが『ドアドア』(エニックス)を発表した頃になりますか。今思えば身の程知らずなんですが、僕も8ビットゲームなら軽く作れるんじゃないかと手を出して、1割くらい進んだところで挫折して、ということを繰り返していました。結局、完成できたのは、ポケコン(ポケットコンピュータ)で作った、『ゼビウス』(ナムコ)にインスパイアされたシューティングゲームくらいでしたが」

 そのポケコンに出会ったきっかけが、ブラスバンド部だった。エレクトーンで音楽を演奏する楽しさに目覚めた目黒さんは、中学入学そうそうにブラスバンド部に入り、トロンボーンを担当した。

「トロンボーンは、先生の薦めでした。本当はトランペットがやりたかったんですが、先生の「あなたは手が長いから」という一言で、人数の足りなかったトロンボーンにまわされて。トロンボーンを抱えたままで、管を抜けるのが自慢でしたね(笑)。そこから、中学時代の僕の生活はブラバン一色。でも、ブラバン自体は、大会にも出ないようなやる気のないユルい部活だったんですよ。一生懸命やってたのは、僕一人。中3で僕は部長になったんですが、まわりの協力も得られず……そのユルさがとってもイヤでした(苦笑)。
唯一、ブラバンで得をしたのが、先輩達との付き合いで。先輩達は、PCを持っていたりポケコンで遊んでいる人が多かったので、僕がポケコンにハマッたのもその影響です」

 トロンボーンに青春を賭けていた目黒さんは、高校進学先もブラバンの盛んな学校を目標に置いていた。

「目指していたのは、明大明治(明治大学付属明治高等学校)。そこに行きたくて、塾にも通っていたんですが……ダメでしたね。そこで、もう一校受けていたのが私立男子校の本郷高校理数科。理数系の勉強が好きなわけではなかったんですけどね。」

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高校時代〜シンセサイザーとの運命的な出会い

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 そうして、本郷高等学校理数科に進学した目黒さんは?

「とてもいい学校でしたね。歴史のある大きな男子校で、雰囲気も硬派。当時の校長も徳川家の血筋の方でした。普通科、理数科のほかに機械科やデザイン科もあって、デザイン科は『北斗の拳』の原哲夫先生、『こちら葛飾区亀有公園前派出所』の秋本治先生など、素晴らしい漫画家をたくさん輩出しています」

 理数科はどうだったのかというと?

「理数科は1クラスだけで、僕らが3期生だったんですが……生徒が16人しかいないんですよ。でも、人数が少ないが故に楽しいクラスでしたね。クラスの半分は、かなりマニアックでしたけどね、アニメが趣味だったり。残念ながら、僕はそちらの仲間には入れなかったですが、みんな仲よく昼休みに野球で遊んだりして、和気あいあいとやってました」

 中学時代に入っていたブラスバンド部。目黒さんは、高校でもトロンボーンを続けようと、部活の門を叩いた。

「そうなんですが、入ってみると中学以上にダメな部で(苦笑)。人数も20人いるかいないかで、楽器の頭数も足りない。1年間で辞めてしまいました」

 では、目黒さんの高校生活は面白みのないものに?

「いや、ところが違ったんですよ。ちょうど、ブラスバンド部の仮入部の際に、僕ともう一人の男子が部長と面談をしまして、それが終わって彼と一緒に帰った時に、その子と意気投合したんです。話題は、中学の頃から聴き始めていたフュージョンバンドの話。FMでハーブ・アルパートやザ・スクェア、カシオペアを聴くうちに、フュージョンが好きになっていたんですよ。歌謡曲はやっぱり聴かずにいたんですが、もう少しコンテンポラリーな……杉山清貴やTMネットワーク、渡辺美里、TUBE、大江千里などのアーバンな音楽も、聴くようになりましたね。
 で、そのフュージョンの話で盛り上がった彼……HくんはYMOが大好きで、シンセサイザーも持っている、ちょっと先行くヤツだったんです。それに僕も感化されて、すぐにシンセサイザーを買うようになりました」

 中学でエレクトーンを卒業していた目黒さんは、新しい音楽友達を得、シンセサイザーという楽器を手にして、新しい音楽人生に足を踏み入れることになった。

「シンセサイザーを始めたといっても、別にテクノをやりたくて、というわけではなかったです。結局、エレクトーンは中3まで続けていたんですが、中学に入ってからは、そういったニューミュージックに影響されたインスト曲の作曲も始めてました。残念ながら、楽譜にしてはいなかったので、もう曲は残っていないんですけど。なので、今までエレクトーンで作曲していた曲を、シンセサイザーという便利な楽器を使って、打ち込みでやるようになったんです」

 このHくんとの出会いがなければ、目黒さんの今に繋がるデジタルミュージックとの出会いは、もう少し先の話になったのかも知れない。余談だが、その後も目黒さんとHくんの付き合いは長く続き、目黒さんがアトラスに入社した頃まで、彼とは一緒にバンドを組んでいたとか。解散後は、しばらく会う機会もなかったそうだが、偶然、大手SNSで最後のバンドに在籍していた女性ボーカリストとやり取りをする機会があり、Hくんの消息も聞くことができたのだとか。ちなみに、目黒さんが当時使っていた機材は?

「最初に手に入れたのは、ヤマハのTX81Zです。お茶の水の楽器店で、中古品セールをやってまして、朝の6時から並んで19800円で買いました。あとは、KORGのDS-8と……カワイのR-50というドラムマシン。R-50は、母親の知り合いがカワイ系列の会社に勤めていて、安く手に入れられたんです。その3つで、頑張って打ち込みを始めました。でもHくんは金持ちの子だったので、その当時から、カシオのCZ-1やKORGのM1という高級機を持っていて、とても羨ましかったですね。僕は、親に買ってもらったことはないというのに、ホントにもう……(笑)」

 ここからの目黒さんの生活は、音楽と共にあった。コツコツとお金を貯めては、機材を揃え、シンセサイザーの打ち込みに夢中になる日々が続く。

「なので、高校時代はPCもゲームもほとんど触ってないですね。高2からはギターも始めて、テクノでもなく、フュージョンでもなく、歌モノのポップス系の曲をバリバリ作るようになりました。中学時代、歌モノの曲を小馬鹿にしていた自分が恥ずかしくなるくらい。聴く曲の傾向も、だんだんJ-POP寄りになりましたしね」

 とはいうものの、高校時代は、作ったボーカル曲を人前でバンド演奏する機会には恵まれなかったとか。

「ボーカリストをどうやってゲットしたらいいのかがよくわからなくて、実際にバンドを組んだのは大学に入ってから。高校の時に、Hくんと一緒に楽器店にメンバー募集の張り紙をしたこともあったんですが、求めていた人材には出会えずでした。仕方がないので、当時、カセットテープのブランドで「AXIA」(富士フイルム)というのがあったんですが、そこが主催するコンテストのインスト部門に曲を応募しましたが……箸にも棒にも掛かりませんでした。
今思うとかなり恥ずかしいんですが、その頃の僕は、天狗でした。根拠もないのに、「なんで受からないんだ、受からないわけがないじゃん」と、ずっと思ってたんですよ(笑)。槇原敬之さんがAXIAのコンテストでグランプリを取った時も、Hくんと「あれより俺らの曲のほうがすごいよな」なんて言ってたくらいで」

 ひたすら、音楽を中心にまわっていた目黒さんの高校時代だが、勉学のほうはどうだったのかというと?

「はい、勉強はまったくしませんでしたね。理数科にいたものの、中学時代からうすうす、僕は数学が苦手だということにも気づいてまして……。だいたい、高校に入ってすぐの業者テストで、数学の偏差値が、比較的得意だった英語と20くらい違いましたからね。当然、クラスの中で数学はビリ。しかも、僕はそれにもめげず、受験を目前に控えた高校3年生の半ばまで、一切勉強をしなかった。高校入試で燃え尽きて、勉強できない体質になっていたんです……と、言い訳してみますが(笑)。
そして、さらに不幸なことに、うちの高校の理数科は、理数系の国公立大学を受けなければならないという決まりがあった。今から考えると、こっそり文系の学部も受けておけばよかったんですけど、学校のいうとおり、素直に国立大と私立大の理系を何校か受験して、日本大学の生産工学部に行くことに決めました。よく、大学というものに受かったものだと思いますね(笑)」

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