賑やかな中学時代から一転、高校に進学した麻野さんを襲ったのは、“学校つまらない症候群”(?)だった。自ら選んだ男子校ではあったが……。
「学校がとにかく嫌いで、勉強はやる気なし、部活で始めたサッカーもそれほど燃えるわけでもなく、地獄のように嫌な高校生活でした。
そこで夢中になったのが、ゲームだったんです。ちょうど、『スペースインベーダー』(タイトー)がリリースされた頃。高校は大阪だったので、学校帰りに心斎橋や梅田の繁華街に通うようになり、図書券で本を買ったおつりなんかをやりくりして死ぬほどやりました。インベーダーゲームが出てくる前から、ゲームセンターやデパートの屋上に置いてあった射的やコインを使った素朴なゲームも好きだったんですが、アナログな道具を使って遊ぶゲームは、その結果が自分の腕の善し悪しなのか、装置の出来の問題なのかがわかりにくいじゃないですか。でも、インベーダーは純粋に自分の腕が点数に反映する。そこが画期的でしたね」
その後も、ゲームセンター通いは続いた。
「インベーダーの後に登場したのは『ヘッドオン』(セガ)ですが、それにはハマらず、次に印象的なのは『平安京エイリアン』(電気音響)や『パックマン』(ナムコ)ですかね。他にも、『与作』(SNK)とか『トランキライザーガン』(セガ)とか、まぁいろんなゲームがあるんですが……このあたりの歴史は、僕も今、学生に教えているので、詳しいんですよ。今見ると不条理なもの多いんですが、当時はゲームセンターで人には言えない裏技を使いつつ(笑)、夢中になって遊んでました」
学校には毎日通ってはいたものの、麻野さんは、つまらない高校生活に嫌気がさしていた。だからこそ、ゲームにのめり込んだのかも?
「まぁ、そうなのかも知れないですね。登校自体はするんですが、面白くないので当然、遅刻癖もぶり返し、授業中は寝てばかり。あだ名も“ねむお”とか、“スリーピー”とか、そんなのばっかでした。
そんな生活でしたから、大学受験も上手くいくわけがなく、1年間、大阪の予備校に通うことになりました。その浪人生活もかなりいい加減。まともに勉強もせず、毎日パチンコをやったり、ビリヤードをやったり……親に申し訳ないことばかりしてましたね」
そんな浪人生活を経て、1982年春。麻野さんは、地元の兵庫県・神戸市にある甲南大学の文学部に合格した。
「文学部を選んだのは、経済とか法学とか他の文系の他の学部に興味がなかったから。そもそも高校で理系に行ったのは、生物が文系にしかなかったから。僕は生物が大好きで、その理由だけで文系を選んだんです。理系でも生物があったら、そっちに行ってたかもしれない。でもまあ、どっちにしろ寝てたと思いますが。
だから、他の成績はまったくどうしようもなかったけど、生物だけはよかったですよ。なんのいい思い出もない学生時代ですが、YMCA模試で全国8位になったことが、唯一の自慢。今でも生物には興味があって、今の僕のヒーローは、iPS(人工多能性幹)細胞の作製に成功した京都大学の山中(伸弥)教授です。ゲーム業界に入って、生物の知識は……まったく役に立ってませんけどね(笑)」
甲南大学で麻野青年を待っていたのは、充実しすぎるほど充実した4年間だったという。ある部活動が、高校、予備校と、それまでのんびり過ごしていた麻野さんの生活を激変させた。
「最初は探検部に入ったんですけど、そこがとてもユルい部活で。ところが、大学に入って友達になったAが入部した演劇部の話を聞くと、ものすごくしんどそうなんです。それを横目で見てるうちに対抗心がわいてきまして(笑)。そんなしんどい部活なら一度は僕も体験してみたいと思い、1ヵ月で辞めるつもりで入部したんですよ。
ところが、しんどい部活だけあって、新入部員がどんどん辞めていってしまい、自分も辞めたかったんですが、辞めるに辞められなくなって、結局4年間続き……最後は部長になってました。」
文系でおとなしいイメージのある演劇部だが、練習は体育部も真っ青のハードさだった。
「芝居の練習もするんですが、そっちはまぁ……(苦笑)。練習は肉体鍛錬ばかりで、主なメニューは腹筋運動と走り込み。腹筋をやり過ぎて、尾てい骨から血が流れるほどでしたよ。当時は小劇場ブームだったので、演じたのも野田秀樹さん、つかこうへいさん、北村想さんあたりの脚本。野田秀樹さんのように、走りまわりながら台詞を言うために、ひたすらターンダッシュを練習しましたね。
本当は、演者よりも照明とか効果をやりたかったんですよ。でも演者が足りないからやることになってしまい、仕方なく。元々人前に出るのがすごく苦手だったのですが、少しは克服できたかもしれないです」
大学時代の麻野さんをひと言でいうと“演劇青年”。だが、ゲームに賭ける情熱も人一倍あった。
「もちろんやってましたよ。演劇部の練習が終わるともう終電。クタクタなんですが、その後、ゲームセンターに行ってました。どんだけゲーム好きなんだと(笑)。同輩、後輩からは“麻野さんはあんなに忙しい部活をやっていながら、どうやってゲームを遊んでたんだ?”と言われるほど、ゲームセンターのすべてのゲームを遊んでました。印象に残っていたのは『ロードランナー』(アイレム)。『ペンゴ』(セガ)などのパズル系が好きだったんですが、とにかくいちばんよく遊んだのは『ロードランナー』ですね」
コンシューマを遊び始めたのは、遅い方だったとか。
「ファミコンを始めたのは、大学も後半。『ポートピア連続殺人事件』(スクウェア・エニックス)からですね。アーケードに比べて絵もしょぼいし、子供のオモチャのわりには高いと思って。ところが、雑誌を立ち読みしてて『ポートピア』のことを知り、“だったらやってみなくちゃ!”と、日本橋に買いに行ったのを覚えています」
今ではアドベンチャー作りを得意とする麻野さんだが、意外なことに、デジタルなアドベンチャーゲームとの出会いは『ポートピア』に触れて以降、20歳を過ぎてからだった。
「そうですね。まぁ、アーケードにはアドベンチャーゲームはなかったですからね。それ以前は、強いて言えばゲームブックをやったくらいで。PCゲームは、パソコン自体が高かったので欲しかったけど買えなかった。家庭教師のバイト先で、芦屋のボンボンの家に通っていた時に、その子がMacかなんかで『ウィザードリィ』を動かしているのを見て、“すごいなぁ”と思っていたくらいですね。あの頃、PCを持っていれば、アドベンチャーゲームとの出会いは、もっと早かったんでしょうね。
ここから、僕のアドベンチャーゲーム人生がスタートする……と言いたいところですが、残念ながら『北海道連鎖殺人 オホーツクに消ゆ』(アスキー)まで、ずいぶん間が空きます。『オホーツク』をプレイしたのは、社会人になって僕が上京してからのことなので」
昼は演劇、少しでも空いた時間はゲームに費やしていた麻野さんの大学生時代。学生の本分、学業のほうはどうだったのか?
「勉強はしたかったんですが、できる時間がなかったので……大学4年になっても、まだ体育の授業が残ってました。演劇部員は単位おとしの常連で、体育の時間には、うちの部の1年生から4年生までが同じ授業を受けている(笑)。取りこぼし過ぎですよね。それでも、なぜか教職は取りました。教師になる気はまったくなかったんですが、親が教師なので、それが唯一の親孝行だと思って。
ちなみに取った科目は、昔僕が大の苦手にしていた社会。教育実習先では、地理のテストで7点しか取れなかった男が、生徒に地理を教えたわけです(笑)。ところが、僕が教えている間、生徒の地理の成績がメキメキ上がりましてね。60点くらいだったクラスの平均点が、90点くらいになりましたよ。どこがわからないのか、ということをよくわかってるバカが教えたのもよかったし、演劇部だから声もデカくて、生徒からするとメリハリがあってわかりやすい授業だったんでしょうね」
忙しい演劇部活動の合間をぬって教員免許も手に入れ、単位も取得し、麻野さんの大学卒業のめども無事たった。だが彼は、そこから就職活動をして社会人になるというスムーズな道のりを辿らず、1年間、研究生として大学に残ることを決める。その理由は?
「勉強が大好きだったとか、社会に出たくなかったというわけでもなく……意味がわからなくなったんですよ。演劇部があまりにしんどすぎて、燃え尽きちゃった。部活は4年の夏に終わって、普通はそこから就職活動を始めるんですが、まず“就職する”という意味が僕には理解できませんでした。探検部だった友達が、いちばん安定しているからという理由で例えばガラス会社に入ると聞いても、“お前のこれまでの生活に、ガラスなんてひとつも関係なかったじゃないか!”と思うわけです。ガラス会社を選ぶ意味がわからない。
で、自分はどこに入ろうと考えても、どこも全然ピンとこないんですよ。その頃は、今と違って終身雇用が当たり前ですし、卒業までのたった半年ほどで迂闊に就職先を決めてしまったら、絶対に後悔すると思ったので、ここは1年研究室に残って、ゆっくり考えようと思ったんです」
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