ゲーム業界で働きたいなら“この会社”ではなく“株式会社ゲーム業界”に就職する気でいてほしい。麻野一哉
 

個性的な作品をつくり出す注目のゲームクリエイターに、“あなたができるまで”を訊くロングインタビュー企画「THE EARLY DAYS」。最終回となる今月のゲストは、6月18日発売の話題作PSP®『銃声とダイヤモンド』(SCE)でシナリオ監修・演出を手がけたゲームデザイナー・麻野一哉さん。『スペースインベーダー』の時代からさまざまなゲームを遊び続け、ゲームクリエイターになる夢を叶えてチュンソフトに入社。『弟切草』『かまいたちの夜』『街〜運命の交差点〜』など、歴史に残る斬新なアドベンチャー作品を世に送り出してきた麻野さんは、どんな半生を歩んできたのか? これまでのアドベンチャーにはない、画期的なシステムと魅力が詰まった最新作『銃声とダイヤモンド』の見どころと共にお届けします。

取材・文/阿部美香(ライター)
 

幼稚園・小学校時代〜目立ちたがりの変わった子

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 『弟切草』『かまいたちの夜』『街〜運命の交差点〜』――。アドベンチャーゲームファンなら知らぬ人はない名作を多数手がけてきた麻野一哉さんの故郷は、兵庫県。幼少時のいちばん古い記憶は、長く暮らした尼崎市の思い出だという。

「小学校に上がる以前、尼崎の南にいた頃は“だんじり”で有名な貴布禰(きぶね)神社の近くの記憶。そこから北に移り住んだ時は、当時まだかなり牧歌的な風景で、田んぼでカエルが鳴いていたのを思い出しますね。そして、小学校に入るとまた南に引っ越して……と、うちは尼崎市内で何度も引っ越しをしてるんですよ。
 父の職業は中学校の教師。3人弟妹の長男です。6歳違いの妹とはそうでもなかったんですが、2学年違いの弟とはケンカばかりしてました。僕はものすごくおしゃべりなんですけど、彼は無口。何を考えてるのか、さっぱりわからなかった。仲良くなったというか、少しは理解し合えたと思ったのは、大学生くらいになって、二人ともファミコンしはじめてからですね。ああ、名前どおりファミリーな機械なんだ、としみじみ思ったことを覚えてます。」

 親御さんが教師だけあって、家には難しい本も並んでいた。その影響があったのか、麻野さんも幼稚園の頃から本を読むのが好きな子供だったという。

「今、僕にも子供がいてちょうどその年齢なんですよ。先日、うちの女房が母親に、僕は幼稚園時代に何が好きだったのかと聞いたら、男の子が好きなヒーロー物にはあまり興味がなくて、本ばかり読んでいたと答えたらしいです。僕はあんまり覚えていないんですけど。唯一、記憶にあるのはキンダーブック(※)があったこと。あと、『いやいやえん』の絵本は、よく覚えてますね」
(※キンダーブック……フレーベル館が1927年に創刊した月刊保育絵本)

 そんな麻野さんの幼稚園時代の記憶は他に?

「通っていた幼稚園は西宮にあったので、国道2号線を走るチンチン電車に乗って通っていました。ただ、うちの母親がなぜか時間にルーズな人だったので、幼稚園には毎日のように遅刻していて。僕がたどり着く頃にはいろんなことが終わってて、いつもビスケットを食べて帰るだけでしたね(笑)。電車通園をしていたこともあり、幼稚園の友達と外で遊んだ記憶もない。だから、家で本を読んだり積み木を遊んだりという遊びしか覚えてないですね」

 そして小学校に入学。幼稚園時代は電車通園だった麻野さんは?

「今度はすごく近くて、家から歩いて1分。でも……毎日遅刻(笑)。小学校時代のあだ名は“遅刻の帝王”でした。偉そうだけど、格好悪いでしょ? 遅刻をするようになったキッカケは、入学式の帰り。集団登校するグループを間違えてしまい、一緒に登校する仲間を覚えられなかった。そこでもう挫折ですね。遅刻せずにすんだのは、行事の日をのぞくと、おそらく6年間で3日もない。
 小学校1〜2年の頃の僕は、めちゃめちゃフリーダムでした。例えば、僕は授業中すごくうるさかったんで、先生に立たされるんですよ。一度、Oさんという女の子と一緒に立たされた時も、その子はすごくしょげかえって、泣きそうになりながら立ってるんですけど、僕は“やっと自由になれた!”と思って、廊下中走り回ってはしゃぐし、Oさんの手を引っ張って“一緒に遊ぼう”とまで言ってましたからね。さすがに先生にも“いい加減にしろ!”と怒られましたよ。ところが、僕にとってはそれもまた嬉しくて(苦笑)。家に帰って母親に報告したら、先生以上に激怒されました」

 小学校低学年の頃は、本当に落ち着きのない子供だったと麻野さんは回想する。

「大人になって、教師になった妹とその頃の話をしていたら、“兄ちゃんがもし、今の時代に生まれてたら、絶対に何かの病名を付けられていたに違いない。よかったね”と言ってましたよ(笑)。とはいえ、親は当時から悲しかったみたいで。小学5年生くらいの時ですかね……“一哉は担任の先生が変わるごとに、おたくのお子さんは変わってますと言われてきたけど、私はそのたびに、そんなことはないと言い続けてきた。でも、やっとその意味がわかったわ”と言ってきて(笑)。家の中でも同じことをしていたハズなんですが、そこでやっと気づいたみたいです。
 落ち着きがないというか……目立ちたがりだったんですよね。しかも人望がない(笑)。クラスの学級委員を決めるような時も、すぐ立候補しちゃうんですよ。でも、絶対に当選しない。学級委員になるのは、立候補した僕じゃなくて、推薦された誰か。授業中も、先生が聞いてもいないのに発言しちゃうようなヤツ(笑)。かなり授業をジャマしてたと思います。本人は普通のつもりでしたけどねぇ」

 読書の趣味は、小学生になっても続いていた。よく読んでいたのは?

「定番ですが、江戸川乱歩の明智小五郎シリーズ。休み時間になると、図書室に行って読みふけっていました。友達のNくんと、よく速読の競争もしましたね。彼が、2日で1冊本を読めるというので、張り合って。本を読むのが好きだから、学年が変わってもらった新しい教科書も、1日で読み終わってしまいましたね。そうなると授業がつまらないので、机に漫画ばかり描いていて。この頃になると、テレビや映画のヒーロー物も盛んになってきましたから、ガメラやウルトラマンや仮面ライダーや……。そんな落書きだらけの机だったので、終業式になると先生から、今日中に落書きを全部消すようにと命令されてました。
 不思議なことに、そんなに漫画を描くのが好きなわりには、絵は壊滅的に下手でしたね。そろばんや習字、ピアノと一緒に絵も習っていたんですが、全然上達しなかった。『銃声とダイヤモンド』のグラフィック担当からも、“本当に、麻野さんは絵が下手くそですね”と言われてますよ(笑)。
 ピアノも同じですね。親のいいつけで嫌々習っていたので、まったく上達もしないし、自分でも面白いとは思えなかった。今でこそ、仕事でも音楽に触れる機会が多いし、音楽も好きですが、それは大人になってから。ピアノを習ったことが、役に立ったとは思えないんですよね」

 周囲には、ちょっと変わった子と思われていたという麻野さん。当時から、考え方も独創的だった。

「ちょっとファンタジーな話になっちゃうんですが、僕は、スーパーなどで売っている商品は、全部天国からやってくる物だと思ってたんですよ。社会科の授業で工場のことを習っても、その実態が理解できてないんですよ。パンやお菓子は、世界の果てから出来上がった物が運ばれてるだけ。人間じゃなくて、きっと妖精かなにかが作ってるんだと。経済の仕組みがまったくわかっていない子供ですよね(笑)。だから、他の科目はいい成績でも、社会科だけは全然ダメ。さすがに小5くらいになると頭では理解できましたが、まだピンときてはいなかった。まぁ……大人にとっての相対性理論みたいなものですかね?(笑)」

 麻野さんは、世間の常識にとらわれない子供だったのだろう。工場の逸話にしても、彼の頭の中には現実とはまた別の、彼自身のリアルな世界を取り巻くストーリーがあった。その力は、今、麻野さんがゲームのストーリーやアイデアを生み出す力にも繋がってはいないだろうか?

「うーん、そこまで立派な話ではないでしょうが(笑)、妄想力はたくましかったかも知れないですね。当時はウォークマンもまだないですから、学校の行き帰りは、頭の中でオリジナルのストーリーを作る時間になってましたね。だいたいは、怪獣やヒーローが活躍する話でしたけど。
 ただ、子供だからネタがなくて、1億30万光年先から来たヒーローと3億トンのモンスターが……なんて、数字ばかりがデカくて話が膨らまず、いつも退屈なストーリーだったのを覚えています(笑)。必殺技の名前も、テレビでは英語っぽい格好いい呼び名がついているのに、僕はボキャブラリーが貧困なので、何を考えても日本語っぽくなってしまう。どうしてなんだろうと、よく悩んでました。こうして、話だけを聞いているといろいろ可愛い子供なんですけど、実態はどうにも……ね。自分の小学生時代を思い出すと、ホントにムカつきます(笑)」

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中学時代〜フリーダムすぎる学校で?

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 小学校時代は遅刻の常習犯だった麻野さん。だが、徒歩5分先の中学に通うようになって、遅刻癖は大きく改善されたという。その理由は?

「すぐ近所に住んでた友達と、一緒に通うようになったからです。小学校の時は、徒歩1分だという油断もあって、学校のチャイムが鳴ってから目が覚めてた。でも、今度は徒歩5分じゃないですか。友達も一緒だから待たせられない。それがいいプレッシャーになって、遅刻はしなくなりました。
 そして毎日、その友達に自分が見た夢の話をしてました。人の夢くらい、つまらない話ってないじゃないですか。でも、H本くんはとてもいいヤツで、いつもニコニコと楽しそうに僕の話を聞いてくれましたね」

 さて、その中学校時代。小学生の時は、とてもフリーダムな麻野さんだったが?

「急におとなしくなりました。思春期にも差し掛かり……小学校6年生くらいから、自分が周りから浮いてることがやっとわかったんですよ。何も考えずに学級委員に立候補することも、普通の子ならやらないことだということも理解し(笑)、ふだんギャーギャー言うんじゃなくて、ここぞという時に面白いことを言う子がウケるんだということがわかった。でも、自分ではそう上手くできないので、周囲の面白い子をずっと観察してました。
 関西では、頭いい子やスポーツができる子、性格のいい子が人気者になれるのはもちろんなんですけど、面白いというのがすごく大事な要素なんですよ。面白い子になりたくて、受けてるヤツをずっと観察してました。」

 ところで、尼崎市というと関西圏でもヤンチャな街のイメージがあるが、麻野さんの中学はどうだったのか?

「いうほど恐ろしい街ではないと思うんですが……当時はちょうど校内暴力が盛んな時代でしたから、さすがに学校は荒れてましたかね。学区内でワースト10には入っていたかも知れないです。まず、トイレのドアがない。だから、小はできても大はできない。さらに、洗面所の水道のコックがない(笑)。僕は、マイコックを持ち歩いてて、手を洗うときはマイコックを取り付けて蛇口をひねって、洗い終わったらまたコックを外して持ち帰るということをやってました。もちろん窓ガラスもありませんから、隣の競艇場の騒音がBGM。おまけに、不良達が授業中いつも更衣室でバンドの練習をしているので、モーターボートの音とキャロルの『ファンキー・モンキー・ベイビー』を聞きながら、先生が授業を。とても賑やかな学校ではありましたね(笑)」

 とはいえ、今の時代の“荒れた学校”のイメージとは違って、ヤンチャの雰囲気もどこか明るかったと麻野さんは言う。

「校内暴力といっても、目の前で誰かが人に暴行を働くところは少なかったですね。もちろん、あることはありましたが。不良同士も人前で派手な喧嘩をすることは少なかったし、イジメもあることはあったけど、それほど多くはなかった。気づかなかっただけかも知れませんが。僕自身は全然不良ではなく、地味な生徒で、せいぜいパイプ椅子を壊して、ピンポン球をボールに野球ごっこしたり、傘を折って曲げたりするくらいで。まぁ、それが授業中なのが問題といえば問題なのかもしれないですが(笑)。ちなみに、中学のときのあだ名は“発作まんじゅう”です」

 では、勉強のほうは?

「成績は良かったですよ……社会以外は(笑)。地理がまったくダメで、テストで7点とかでした。一度、カンニングで95点を取って母親が喜んでたことがありましたが、まともな点数はそのときだけでした(笑)」

 幼い頃から好きだった読書も、この頃からジャンルの幅が広がり、新しく熱中した趣味として音楽が加わった。

「小学校では、図書室にある本が中心でしたが、中学からは自分で本を買いに行くようになったので、当時流行っていたSFをよく読むようになりましたね。筒井康隆が大好きで、他には星新一とか……SFがいちばん面白い時代だったように思います。海外の古典的な作品……H.G.ウェルズのSFとか、推理小説だとアガサ・クリスティとか。
 漫画もよく読みましたね。お金がないので、駅のゴミ箱からジャンプやマガジンを拾ったりして(笑)。好きな漫画は『マカロニほうれん荘』かな? 音楽もクィーンやキッスを聴き出して、なかでもクィーンは大好きでしたね。アルバムなら『オペラ座の夜』と『華麗なるレース』、これは甲乙つけ難い。日本だとフォーク。特に井上陽水ですね。たまたま買った『氷の世界』がすごく良くて。自分でも、ロックやフォークを演奏したくてギターを買ったんですが、完全に3日坊主でした……と、音楽の話をするとかなり長くなってしまうので、このあたりでやめておきましょう(笑)」

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高校・大学時代〜演劇とゲームに明け暮れた日々

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 賑やかな中学時代から一転、高校に進学した麻野さんを襲ったのは、“学校つまらない症候群”(?)だった。自ら選んだ男子校ではあったが……。

「学校がとにかく嫌いで、勉強はやる気なし、部活で始めたサッカーもそれほど燃えるわけでもなく、地獄のように嫌な高校生活でした。  そこで夢中になったのが、ゲームだったんです。ちょうど、『スペースインベーダー』(タイトー)がリリースされた頃。高校は大阪だったので、学校帰りに心斎橋や梅田の繁華街に通うようになり、図書券で本を買ったおつりなんかをやりくりして死ぬほどやりました。インベーダーゲームが出てくる前から、ゲームセンターやデパートの屋上に置いてあった射的やコインを使った素朴なゲームも好きだったんですが、アナログな道具を使って遊ぶゲームは、その結果が自分の腕の善し悪しなのか、装置の出来の問題なのかがわかりにくいじゃないですか。でも、インベーダーは純粋に自分の腕が点数に反映する。そこが画期的でしたね」

 その後も、ゲームセンター通いは続いた。

「インベーダーの後に登場したのは『ヘッドオン』(セガ)ですが、それにはハマらず、次に印象的なのは『平安京エイリアン』(電気音響)や『パックマン』(ナムコ)ですかね。他にも、『与作』(SNK)とか『トランキライザーガン』(セガ)とか、まぁいろんなゲームがあるんですが……このあたりの歴史は、僕も今、学生に教えているので、詳しいんですよ。今見ると不条理なもの多いんですが、当時はゲームセンターで人には言えない裏技を使いつつ(笑)、夢中になって遊んでました」

 学校には毎日通ってはいたものの、麻野さんは、つまらない高校生活に嫌気がさしていた。だからこそ、ゲームにのめり込んだのかも?

「まぁ、そうなのかも知れないですね。登校自体はするんですが、面白くないので当然、遅刻癖もぶり返し、授業中は寝てばかり。あだ名も“ねむお”とか、“スリーピー”とか、そんなのばっかでした。
 そんな生活でしたから、大学受験も上手くいくわけがなく、1年間、大阪の予備校に通うことになりました。その浪人生活もかなりいい加減。まともに勉強もせず、毎日パチンコをやったり、ビリヤードをやったり……親に申し訳ないことばかりしてましたね」

 そんな浪人生活を経て、1982年春。麻野さんは、地元の兵庫県・神戸市にある甲南大学の文学部に合格した。

「文学部を選んだのは、経済とか法学とか他の文系の他の学部に興味がなかったから。そもそも高校で理系に行ったのは、生物が文系にしかなかったから。僕は生物が大好きで、その理由だけで文系を選んだんです。理系でも生物があったら、そっちに行ってたかもしれない。でもまあ、どっちにしろ寝てたと思いますが。
 だから、他の成績はまったくどうしようもなかったけど、生物だけはよかったですよ。なんのいい思い出もない学生時代ですが、YMCA模試で全国8位になったことが、唯一の自慢。今でも生物には興味があって、今の僕のヒーローは、iPS(人工多能性幹)細胞の作製に成功した京都大学の山中(伸弥)教授です。ゲーム業界に入って、生物の知識は……まったく役に立ってませんけどね(笑)」

 甲南大学で麻野青年を待っていたのは、充実しすぎるほど充実した4年間だったという。ある部活動が、高校、予備校と、それまでのんびり過ごしていた麻野さんの生活を激変させた。

「最初は探検部に入ったんですけど、そこがとてもユルい部活で。ところが、大学に入って友達になったAが入部した演劇部の話を聞くと、ものすごくしんどそうなんです。それを横目で見てるうちに対抗心がわいてきまして(笑)。そんなしんどい部活なら一度は僕も体験してみたいと思い、1ヵ月で辞めるつもりで入部したんですよ。
 ところが、しんどい部活だけあって、新入部員がどんどん辞めていってしまい、自分も辞めたかったんですが、辞めるに辞められなくなって、結局4年間続き……最後は部長になってました。」

 文系でおとなしいイメージのある演劇部だが、練習は体育部も真っ青のハードさだった。

「芝居の練習もするんですが、そっちはまぁ……(苦笑)。練習は肉体鍛錬ばかりで、主なメニューは腹筋運動と走り込み。腹筋をやり過ぎて、尾てい骨から血が流れるほどでしたよ。当時は小劇場ブームだったので、演じたのも野田秀樹さん、つかこうへいさん、北村想さんあたりの脚本。野田秀樹さんのように、走りまわりながら台詞を言うために、ひたすらターンダッシュを練習しましたね。
 本当は、演者よりも照明とか効果をやりたかったんですよ。でも演者が足りないからやることになってしまい、仕方なく。元々人前に出るのがすごく苦手だったのですが、少しは克服できたかもしれないです」

 大学時代の麻野さんをひと言でいうと“演劇青年”。だが、ゲームに賭ける情熱も人一倍あった。

「もちろんやってましたよ。演劇部の練習が終わるともう終電。クタクタなんですが、その後、ゲームセンターに行ってました。どんだけゲーム好きなんだと(笑)。同輩、後輩からは“麻野さんはあんなに忙しい部活をやっていながら、どうやってゲームを遊んでたんだ?”と言われるほど、ゲームセンターのすべてのゲームを遊んでました。印象に残っていたのは『ロードランナー』(アイレム)。『ペンゴ』(セガ)などのパズル系が好きだったんですが、とにかくいちばんよく遊んだのは『ロードランナー』ですね」

 コンシューマを遊び始めたのは、遅い方だったとか。

「ファミコンを始めたのは、大学も後半。『ポートピア連続殺人事件』(スクウェア・エニックス)からですね。アーケードに比べて絵もしょぼいし、子供のオモチャのわりには高いと思って。ところが、雑誌を立ち読みしてて『ポートピア』のことを知り、“だったらやってみなくちゃ!”と、日本橋に買いに行ったのを覚えています」

 今ではアドベンチャー作りを得意とする麻野さんだが、意外なことに、デジタルなアドベンチャーゲームとの出会いは『ポートピア』に触れて以降、20歳を過ぎてからだった。

「そうですね。まぁ、アーケードにはアドベンチャーゲームはなかったですからね。それ以前は、強いて言えばゲームブックをやったくらいで。PCゲームは、パソコン自体が高かったので欲しかったけど買えなかった。家庭教師のバイト先で、芦屋のボンボンの家に通っていた時に、その子がMacかなんかで『ウィザードリィ』を動かしているのを見て、“すごいなぁ”と思っていたくらいですね。あの頃、PCを持っていれば、アドベンチャーゲームとの出会いは、もっと早かったんでしょうね。
 ここから、僕のアドベンチャーゲーム人生がスタートする……と言いたいところですが、残念ながら『北海道連鎖殺人 オホーツクに消ゆ』(アスキー)まで、ずいぶん間が空きます。『オホーツク』をプレイしたのは、社会人になって僕が上京してからのことなので」

 昼は演劇、少しでも空いた時間はゲームに費やしていた麻野さんの大学生時代。学生の本分、学業のほうはどうだったのか?

「勉強はしたかったんですが、できる時間がなかったので……大学4年になっても、まだ体育の授業が残ってました。演劇部員は単位おとしの常連で、体育の時間には、うちの部の1年生から4年生までが同じ授業を受けている(笑)。取りこぼし過ぎですよね。それでも、なぜか教職は取りました。教師になる気はまったくなかったんですが、親が教師なので、それが唯一の親孝行だと思って。
 ちなみに取った科目は、昔僕が大の苦手にしていた社会。教育実習先では、地理のテストで7点しか取れなかった男が、生徒に地理を教えたわけです(笑)。ところが、僕が教えている間、生徒の地理の成績がメキメキ上がりましてね。60点くらいだったクラスの平均点が、90点くらいになりましたよ。どこがわからないのか、ということをよくわかってるバカが教えたのもよかったし、演劇部だから声もデカくて、生徒からするとメリハリがあってわかりやすい授業だったんでしょうね」

 忙しい演劇部活動の合間をぬって教員免許も手に入れ、単位も取得し、麻野さんの大学卒業のめども無事たった。だが彼は、そこから就職活動をして社会人になるというスムーズな道のりを辿らず、1年間、研究生として大学に残ることを決める。その理由は?

「勉強が大好きだったとか、社会に出たくなかったというわけでもなく……意味がわからなくなったんですよ。演劇部があまりにしんどすぎて、燃え尽きちゃった。部活は4年の夏に終わって、普通はそこから就職活動を始めるんですが、まず“就職する”という意味が僕には理解できませんでした。探検部だった友達が、いちばん安定しているからという理由で例えばガラス会社に入ると聞いても、“お前のこれまでの生活に、ガラスなんてひとつも関係なかったじゃないか!”と思うわけです。ガラス会社を選ぶ意味がわからない。
 で、自分はどこに入ろうと考えても、どこも全然ピンとこないんですよ。その頃は、今と違って終身雇用が当たり前ですし、卒業までのたった半年ほどで迂闊に就職先を決めてしまったら、絶対に後悔すると思ったので、ここは1年研究室に残って、ゆっくり考えようと思ったんです」

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